泳ぎながら考えたことを、夢見たこと、1Q84

1Q84という本を読みすすめている。首都高速を降りるところまで読んだ。
間に、式に出たり、飛行機に乗ったり、文芸春愁を読んだり、漫画を買って読んだり、ネットショッピングで時計を見て回ったり、つくりかけの太陽系儀をあきらめたり、レゴをしたり、フレンステッドモビールを見たり、携帯電話をいじったり、ビールを飲んだり、コンビニに行ったり、泳ぎに行ったり、川原を歩いたり、子どもを見たり、子どもがガラスドアに頭をぶつけてるのを見たり(>/<)、新しいボトルドウォーター(カナダ氷場)を買ったりした。

風と水の関係は昔ながらのやり方で記号化されて街に組み込まれている。それが建築にも現れてくる。
天気と光を見ることで、見る夢を決められてくる。
清流と交流の、流れ方の利害。
信長の野望というゲームを脳内でエミュレートしているときの、宇喜多直家と「さい」所元常の関係。
世界遺産を見て回るときの白鷺城を水に、カフカの城を避けて、安芸の宮島で一日千秋のときを過ごし、
岩国のベースで音楽を聴いて、F15の航空ショーを見る。
動物園の動物たちの声を聞き、星の美しさを崇め、もう一度ほえざるの声を聞きたいと想う。iTunesからよりも。
時々時々の凪凪凪凪。天災を避けるためには、どういったアーキテクチャとプラットフォームが必要なのだろうか。
干拓の時代は終わった。空の設計をどうするのだろうか。有事と平和と。今一度、腕時計をはめるべきなのか。

いつも卵のそばにいて

村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳: 極東ブログ

村上春樹のスピーチ「Always on the side of the egg」=「いつも卵のそばにいて」の対訳と、その反応をブログでいろいろと読んだ。
しかし、個人的にとれるようなメタファーを、村上春樹がうまく使っているにも関わらず、そこには触れないで政治的な話ばかりに終始するブログか、翻訳して意味をとっているブログが多かった。
それは、オバマ大統領の大統領就任演説を、「彼の祖母の死という事実」が、アメリカの何かの伝統の死のメタファーとなっているということなしに聞いても、隔靴掻痒であるのと同じようなものである。
「政治的な事柄については、個人的にとらないでくれよ」なんて、こういう場合の叙述の倫理ではないだろう。
本人だって、父の死の話だって言っているんだから、下世話な解説をしてもよいはずだ。
ということで、メタファーを中心に部分的に超訳で抄訳したものを以下に載せる。
メタファー部分がメタファーとしてわかりやすくなるように、こなれなく訳した。
これが正しい訳ではまるでない。(括弧内に解説をつける)
正しい訳は、リンク先をどうぞ。

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

「高さとしての固き壁と、それにむかって壊れる一つの卵の間で、私は常に卵の側に立つつもりだ」

(高さ=壁がメタファーとなる。卵とは、仏教で心、一神教で各人の一のメタファーである。村上春樹は、
神仏習合の人として、一神教の人に向かって話しかけている。神仏習合の場合、仏教的には、卵の中身は空である。神道的には、英語を流暢に喋る日本人=ヨークである。この場合、バナナではない。もちろん吉本ばななでもない)

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

このメタファーの意味は何でしょうか? あるケースでは、これは簡単単純です。ボンバーとタンクとロケットと白いフォスフォラスのシェルは、高さとしての固き壁です。卵たちは、力なきシビリアンで、それらによってクラッシュされて焼かれてしまいます。これが、メタファーの一つ目の意味です。

(これは、村上春樹の父親の火葬の風景の解説とするのがわかりやすい。火葬場は、焼き場と霊柩車と棺と白い燐の骨の殻からなる。フォスフォラス=燐が、フォスフォラス=明けの明星とかけてあって、高さのメタファーへとつながっている。そして、この場合、卵とは諸行無常の個々人であると同時に、焼かれていく死者の細胞の核でもある。高さとは、もちろん避けられない死と諸法無我のメタファーである)



この文章の後に、政治的な文脈へと話がつながっていって、おもしろく述べられている。
しかし、白燐弾=白いフォスフォラスのシェルの意味がとれなければ、このスピーチは感動的ではないだろう。アメリカ人にはエキゾティックで言及しにくいスピーチに、イスラエル人には神秘的で幽霊的なスピーチに思えるのかもしれない。
他人の死については、語りうるが、話者の身近な死についての話については語りにくいものだ。死はいつでも個人的なもので、戦争の話とは違うから。アメリカもイスラエルも戦時中なので、戦争と死の話題について述べるのは、勇気がいることなのだ。たぶん。

地名的な事柄

地名の日常会話での位置に興味がある。
日本語は、同音異義語が多く、受信者側での脳内での漢字変換を想定することで初めて、意味をとれるようになるという側面がある。
やまとことばだけでしゃべるわけにはいかないのだ。
その中で、単語として地名は特別な位置にある。
コーパス上で、ある人が喋る単語の中で、固有名詞でありながら、人名でなく、繰り返される可能性が高く、日本語では転用されて一般名詞を形成することも多い。
日本語では時の名前は一つに定まる。象徴天皇制があるからだ。今は平成である。「今上天皇陛下」は、ときの名前の代替として、記号化されているとも言える。
だからこそ、人名ではなく、時名ではなく、地名こそが、日常言語の中で致命的な位置を占めているのである。
名詞の中で、地名が地名だとわかるための、形式はある。
しかし、地名は、一般名詞に簡単に紛れてしまう。
人名より、同名が少なく、記憶される総数が一般に多く、共通性が少なく、形式的位置が決まっていない。
文法上の形式的位置だけでなく、時系列的な形式的位置も決まっていない。かといって、人名ほど恣意的で歴史的であるわけでもない。
これまで述べてきたような、回りくどさでもって、地名の意味は定まっている。
例えば、私が現在住んでいる岡山市には、伊島という島だったが埋め立てられた土地がある。これは島なのだろうか?
例えば、さいという決められた漢字では表記できない、川原沿いのエリアがある。これはさいのかわらなのだろうか?
例えば、百間川という、内田百輭とは、日と月ほどしか違わない名前の人工の川がある。
犬の散歩の際に、このようなことを考えたことを思い出す。
地名の差違は何のための論理で編成されているのだろうか。
山手線ゲームは、定まったメタファーの連鎖であり、古今東西やしりとりとは違う。
これは神話の論理ではない。これは説話の論理ではない。これは物語の論理ではない。これは制度の論理ではない。
これは地理の論理ではない。これは差違の論理ではない。これは下位の論理ではない。これは時の論理ではない。
メタファーは構造体ではない。それは地名的であるが、領域的ではない。

感覚日記か象の消滅か狗子仏性

言葉にしたことを、どのように書くかということについて、いろいろなやり方がある。
このブログは、僕自身が書かれたあとの時点から読み返すと、感覚日記として読めるように書かれている。と同時に、他の人が読んだときに、「象の消滅」のように、読めるように、書かれている。
しかし、それでは書かれないことというのがある。スピーチと書かれたことは、異なるのである。スピーチアクトではなく、書き言葉としての日本語ではなく、単なる事実についての事柄だ。
もちろん、書けない代わりに書けることがある。だから書ける。すでに言える。
いうとすると、隻手の音声(せきしゅのおんじょう)や、狗子仏性(くしぶっしょう)というような言われ方をすることが多い。

それは、リストやロジックやリンク集という形を組み合わせたとしても、意味が拡散してしまい、言えはしないが、するとも言えるが、するとしたら、文脈が瓦解してしまう。
それは詩情ではない。それは治乱ではない。それは重畳ではない。それは新雪ではない。
四句が四元数のような概念となって、テトラポッドで埋め立てられた無意識の渚で、波にさらわれる。
それは、詩句によって干拓はされない三角州であり、灰度によって曇らされる空ではなく、四句によって踏破される雪面ではなく、グレー度数によって干拓される扇状地である。
実際の卵は個人的な事実でしかなく、調理の仕方はノイズにさらされている。
意味は神話ではなく、意味は形式的に定まり、意味は固めると誤解し、意味は今ではない。
今朝、今宵、今夕、今晩、今昼、今。

【哲学する会計4】:意味論と測定

会計では、一般に、「何時」ということは認識、そして「いくら」ということは、測定と言われる。もっとも、このうち会計上の認識は、測定可能性によって制約されるので、認識をも含めて測定と言われることが多い(広義測定概念)。

「現代会計論」の中で笠井昭次は上記のように述べている。企業の経済活動をいかにして記号化して、伝達可能なものとするのかという情報の生成の仕方についてである。これを著者は意味論と呼んでいる。経済の記号素を収集しメトノミー的に変換して、つまり取引的に、できれば貨幣的に、変換して記帳するやり方を意味論と呼んでいるのである。要は、企業の経済活動を勘定に記録することを、会計の意味論と呼んでいる。これは、言語学の意味論・構文論・語用論の区別から持ち込まれている、会計の言語学的な把握である。
つまり、意味とは測定である、との測定主義的な見解をとっているのである。これは会計のセントラルドグマの一つとなる概念である。会計上の認識は、測定可能性によって制約されるのである。(不良債権の査定やブランド価値の査定を想起するとよくわかる)
勘定分類と基本的等式は、認識と測定(広義の測定)の段階で成り立つ。勘定が意味論的な働きを果たしていて、それがプロセスの中で処理されるのである。その後、記録されて仕訳つまり分類されて、要約つまり財務諸表作成される。

GoogleJapanの急上昇ワードサービスレビュー

GoogleJapan(グーグル)の急上昇ワードサービスをレビューする。
グーグルのトップページに、急上昇ワードを表示するサービスが追加された。
グーグルは最近、日本へのローカライズを進め、多少ヤフーっぽいインターフェイスへとだんだんと変化している。
急上昇ワードを見て、おもしろいと思ったのは以下の二点。

1.検索ワードが思い浮かばない人への検索支援。
検索したいわけではなく、ぼーっとウェブを見たい人への、検索ワード入力支援。
予測変換のオンライン版である。

2.ランキングを通した、フィードバックループの形成による、新しい世論形成への寄与。
時間ごとに変化する検索ワードのランキングを行うことで、スター記事が生まれやすくなる。
その記事を読んだことで、今後の世論形成に役立つ。主にテレビ・新聞からのフィードを、検索によってループするという回路が、急上昇ワードサービスで可視化される。
ざっと、見たところだと、スポーツ新聞の記事の見出し順序のような検索を多くの人はしているようだ。
雑誌的なヤフーニュースの人手によるニュース選択と比べてみると、おもしろい。
例えば「中川大臣」→「財務大臣」→「中川昭一」と、ランキングに上がってくる検索ワードが変化している。報道の受容と、それに対して興味を持って調べてみる人の考えがうかがわれる変化である。
小泉純一郎」は、ランキングインしなかった。みんな知っているから調べるまでもなかったということだろう。
「大学名」がランキングするのは、受験生が検索してアクセスしているからであろう。
サーチエコノミーや沈黙の螺旋状の政策過程に興味がある方は、グーグル急上昇ワードを定点観測してみると何かがわかるかもしれません。

(断っておくと、中川昭一が注目されるのはタイミング的にもいいことだ。今までの政治的経緯や対ソビエト連邦外交の記憶、宗男と佐藤優の事件、水の安全保障、G7国際協調外交など、現在の政局を超えて、検索しておくべき人物である。中川(酒)と呼ばれて、一部では昔から有名だった)

ニコニコ動画の削除アルゴリズムからの権利者意図の復元について

ニコニコ動画をよく観ていた/いる。
すると、マイリストに登録履歴がたまる。
それをマイリストの上限に合わせて、削減するときに、
時系列的に、何の動画がいつ削除されたのかが把握できる。
そこから、権利者もしくは権利者を装った者からの削除要請と、それに対する運営の削除方針というか削除している情報処理ワーカーの気分や観ている映像や検索している語彙や仕事の手順が想定できる。
それを想定すれば、正当な権利者からの削除要請がリバースエンジニアリングで想定できて、新聞のテレビ欄と合わせれば、各局テレビ局の神話論理というか、制作者個々人の政治思想や信仰の政局に対する報道姿勢に基づいてつくられる各局の報道姿勢が、思い浮かべられうる。
なぜならば、アイボールの動きをどういう風にコントロールしたいのかという権利者の意志がそこへは反映されるからだ。残像を見ることによって、制作者の心像を番組レベルで復元することが、おそらくできる。
映画を、構造主義認知科学で読み解くのと、やり方は同じである。
妥当性は低いが、ニュースの見方を考える一つの見方となる。
(たぶんである。削除アルゴリズムが機能していればである)
資本関係的に、ある偏った視点からしかものを観ないことによる分析をいくつも組み合わせれば、さらに、人々の意図が見えやすくなる。
現代の神話の解体分析アルゴリズムとして、ニコニコ動画は優秀である。

今後の神話制作者は、もっと、天気予報と災害報道への目配りをすることが重要になるだろう。
ニコニコ動画にも、運営の意志はあるが、それは、アルゴリズムで透明になっている。ユーザー起点が優先順序決めの基本になるインターネットと、そうでない優先順序決めの仕方をしているテレビ局と新聞社の差で、おもしろさで後者が上回れるのは、もはや、お天気と災害と選挙だけである。でも、一時期よりは、テレビ番組はおもしろくなっている。番組編成の改革効果が出ている。特に日本放送協会の教育テレビジョンは、放送の受信料金を払ってもらって放送電波を維持するためにも、放送番組を見る限り、生き残りをかけて改革が進んでいるようだ。建前上、非営利組織の運営をしているため、むしろ、不景気には適応性が高く、おもしろい番組をつくることができるのだろう。