感覚日記か象の消滅か狗子仏性

言葉にしたことを、どのように書くかということについて、いろいろなやり方がある。
このブログは、僕自身が書かれたあとの時点から読み返すと、感覚日記として読めるように書かれている。と同時に、他の人が読んだときに、「象の消滅」のように、読めるように、書かれている。
しかし、それでは書かれないことというのがある。スピーチと書かれたことは、異なるのである。スピーチアクトではなく、書き言葉としての日本語ではなく、単なる事実についての事柄だ。
もちろん、書けない代わりに書けることがある。だから書ける。すでに言える。
いうとすると、隻手の音声(せきしゅのおんじょう)や、狗子仏性(くしぶっしょう)というような言われ方をすることが多い。

それは、リストやロジックやリンク集という形を組み合わせたとしても、意味が拡散してしまい、言えはしないが、するとも言えるが、するとしたら、文脈が瓦解してしまう。
それは詩情ではない。それは治乱ではない。それは重畳ではない。それは新雪ではない。
四句が四元数のような概念となって、テトラポッドで埋め立てられた無意識の渚で、波にさらわれる。
それは、詩句によって干拓はされない三角州であり、灰度によって曇らされる空ではなく、四句によって踏破される雪面ではなく、グレー度数によって干拓される扇状地である。
実際の卵は個人的な事実でしかなく、調理の仕方はノイズにさらされている。
意味は神話ではなく、意味は形式的に定まり、意味は固めると誤解し、意味は今ではない。
今朝、今宵、今夕、今晩、今昼、今。