泳ぎながら考えたことを、夢見たこと、1Q84

1Q84という本を読みすすめている。首都高速を降りるところまで読んだ。
間に、式に出たり、飛行機に乗ったり、文芸春愁を読んだり、漫画を買って読んだり、ネットショッピングで時計を見て回ったり、つくりかけの太陽系儀をあきらめたり、レゴをしたり、フレンステッドモビールを見たり、携帯電話をいじったり、ビールを飲んだり、コンビニに行ったり、泳ぎに行ったり、川原を歩いたり、子どもを見たり、子どもがガラスドアに頭をぶつけてるのを見たり(>/<)、新しいボトルドウォーター(カナダ氷場)を買ったりした。

風と水の関係は昔ながらのやり方で記号化されて街に組み込まれている。それが建築にも現れてくる。
天気と光を見ることで、見る夢を決められてくる。
清流と交流の、流れ方の利害。
信長の野望というゲームを脳内でエミュレートしているときの、宇喜多直家と「さい」所元常の関係。
世界遺産を見て回るときの白鷺城を水に、カフカの城を避けて、安芸の宮島で一日千秋のときを過ごし、
岩国のベースで音楽を聴いて、F15の航空ショーを見る。
動物園の動物たちの声を聞き、星の美しさを崇め、もう一度ほえざるの声を聞きたいと想う。iTunesからよりも。
時々時々の凪凪凪凪。天災を避けるためには、どういったアーキテクチャとプラットフォームが必要なのだろうか。
干拓の時代は終わった。空の設計をどうするのだろうか。有事と平和と。今一度、腕時計をはめるべきなのか。