地名的な事柄

地名の日常会話での位置に興味がある。
日本語は、同音異義語が多く、受信者側での脳内での漢字変換を想定することで初めて、意味をとれるようになるという側面がある。
やまとことばだけでしゃべるわけにはいかないのだ。
その中で、単語として地名は特別な位置にある。
コーパス上で、ある人が喋る単語の中で、固有名詞でありながら、人名でなく、繰り返される可能性が高く、日本語では転用されて一般名詞を形成することも多い。
日本語では時の名前は一つに定まる。象徴天皇制があるからだ。今は平成である。「今上天皇陛下」は、ときの名前の代替として、記号化されているとも言える。
だからこそ、人名ではなく、時名ではなく、地名こそが、日常言語の中で致命的な位置を占めているのである。
名詞の中で、地名が地名だとわかるための、形式はある。
しかし、地名は、一般名詞に簡単に紛れてしまう。
人名より、同名が少なく、記憶される総数が一般に多く、共通性が少なく、形式的位置が決まっていない。
文法上の形式的位置だけでなく、時系列的な形式的位置も決まっていない。かといって、人名ほど恣意的で歴史的であるわけでもない。
これまで述べてきたような、回りくどさでもって、地名の意味は定まっている。
例えば、私が現在住んでいる岡山市には、伊島という島だったが埋め立てられた土地がある。これは島なのだろうか?
例えば、さいという決められた漢字では表記できない、川原沿いのエリアがある。これはさいのかわらなのだろうか?
例えば、百間川という、内田百輭とは、日と月ほどしか違わない名前の人工の川がある。
犬の散歩の際に、このようなことを考えたことを思い出す。
地名の差違は何のための論理で編成されているのだろうか。
山手線ゲームは、定まったメタファーの連鎖であり、古今東西やしりとりとは違う。
これは神話の論理ではない。これは説話の論理ではない。これは物語の論理ではない。これは制度の論理ではない。
これは地理の論理ではない。これは差違の論理ではない。これは下位の論理ではない。これは時の論理ではない。
メタファーは構造体ではない。それは地名的であるが、領域的ではない。