4 ニーチェのパースペクティヴィズム

4-1  パースペクティヴィズムによる善悪の彼岸



 「すべての価値観は、その生物個体の観点に依存しており、相対的である」。これがパースペクティヴィズムの根本命題である。

 パースペクティヴィズムは、相対主義の一種である。相対主義は、主義として主張されると自己言及を起こしてしまう。例えば、「すべての価値観は相対的である」という主張をその命題の価値観つまりパースペクティヴィズムに適用すると、「パースペクティヴィズムも相対的である、ゆえに、パースペクティヴィズムも正しいが、絶対的イデオロギーも正しい」という矛盾する命題が導かれてしまう。パースペクティヴィズムは原理的には矛盾している、しかし、運用面で問題はない。「すべての価値観は相対的である」という命題と「この価値観は絶対的である」という命題は共に超越論的であり、相互に凌駕しあえるので、水掛け論となり、どちらも証明できない。しかし、その証明出来なさの内に主義主張同士の相対性が見受けられ真だとわかるだろう。もちろん、どちらの主張が実際に正しいとされるかは、主義同士の力の強さによる。

 このことの相似として、相対主義の一種である自由主義が挙げられる。自由主義はすべての価値観の自由を保障するが、自由主義を否定する価値観の自由だけは保障しない。自由主義は相手が対話を続ける限り寛容であり、自由主義を否定する価値観を述べることは許容する。だが、もちろん理解しない。そして自由主義を否定する価値観に則って行動すると、自由主義の名の下に暴力が繰り広げられる。(自由主義全体主義共産主義・ファシスティックな民族主義イスラム原理主義等の宗教原理主義)に対してとる暴力を思い出していただきたい)。



 パースペクティヴィズムは、道徳に敵対する。もちろん、パースペクティヴィズムは相手が対話を続ける限り寛容であり、パースペクティヴィズムを否定する価値観を述べることは許容する。だが、もちろん理解しない。道徳は、絶対的な善、例えば、カントの黄金律(→定言名法)(その行動原理が一般的になることをあなた自身が望む行動原理に従って行動せよ)を規定し、それに従って行動することを要求する。そのようなあつかましい要求を、パースペクティヴィズムは受け入れられない。人の思考は自由であり、善悪の彼岸にいる。

 では、パースペクティヴィズムに則った受け入れられる行動の指針とはどのようなものであるのか。それは、真であり、あつかましくない行動の指針、つまり、道徳としては無意義なものとなるだろう。



4-2  道徳のあつかましさと非真理性



 それについて述べる前に、道徳のあつかましさと非真理性について述べておく。あつかましさは暴力性であり、いやなものであるから、反発を招く。また、きちんとした言葉を吐くためには、思考の自由さが必須であり、多くの人の思考の自由さを妨げているものに道徳の非真理性がある。道徳は利己的な個人の間で利他性が発揮されるように調整する権力装置であるから、道徳が力を発揮し社会全体の幸福の総量を増加させるためにあつかましく間違っているのは仕方がないことである。



 道徳の最も一般的なかたち、子どもの頃教師や親によく言われたであろうこの言葉「自分がされていやなことを他人にすると、他人にも同じようなことを自分に対してされるから、自分がされていやなことを他人に対してしてはいけません」を取り上げよう。これのことを相互原理という。自分がしたいことをしない代わりに、他人から自分がされたくないことをされないという契約を結んでいる、それが社会の成立の根底にあるというのが社会契約説である。その説の素となっている原理「自分がされていやなことを他人に対してしない」自体は、あつかましくも間違ってもいない。ただの決意表明である。決意するも決意しないも勝手である。しかし、この原理は自分だけが決意し遵守しても仕方がない。他人もこの原理を決意し遵守してくれなくては、社会契約が成立しないからだ。だから、この原理を決意している人は、決意していない人(主に子ども)に対して、あつかましく、権力に任せて、この原理を決意させようとする。「義務を果たさなければ自由は抑圧される」という事実を「自由と義務は不可分である」なんて言ったりする。子どものことをきちんと考えた上で言う間違っていない言葉は、「自分がされていやなことを他人にすると、同じようなことを自分に対して他人からされるから、自分がされていやなことを他人に対してするのはやめた方がよいが、同じようなことを自分に対して他人からされるリスクを鑑み、そのようなことをして周りの人から叱責や罰を受けるかもしれないリスクを鑑み、罪悪感を感じるかもしれないリスクを鑑み、それでもしたい場合はするべきだ」である。人は根源的には社会を維持するために存在しているではないのだから、常に社会契約を遵守する必要はない。

 相互原理ひいては社会契約説は、人に決意表明させるための寓話であり、現実の理解としては不十分である。現実において、人は、相互原理に従って行動するわけではなく、それを考慮に入れた上で行動するだけだ。どのような言葉も人の行動を規制することは出来ない。



 道徳の特殊なかたち、「人の悲しみに共感し、被害者や弱者を助けてあげなさい」をとりあげる。これを同情という。こういう態度をとる人は、例えば、テレビで犯罪のニュースを見て、被害者に同情して、加害者に敵意を抱く。なぜ、自分の生活と直接関係がないたまたま流れていたテレビのニュースの被害者に共感しなければならないのか。同じく見知らないんだから加害者の方に共感してもよいのではないか。なぜ、加害者に共感し共に喜ばず、被害者に共感して共に悲しみ敵意まで抱くのだ。これは、社会の維持上必要な機能であり、その機能に名前を与えるならば排撃といったものになる。この一般的な心的機構は、人々の心に入り込んだ権力というものを端的に表している。社会全体における幸福を考えるにしても、被害者が受けた不幸と加害者が得た幸福のどちらかが大きいと判断できるわけではないので、どちらが社会全体における幸福をより増やすのかはわからない。(適当に計量化して、そのどちらが大きいと定めることもできる。そして被害者の不幸の方が大きいならば、すべきではないことで、加害者の幸福の方が大きいならば、すべきことだ、とする個人の幸福を望む功利主義もありうる)

 人々の行動を理解するには、正義の視点が必要である。(そうすれば、その人々が正当だと思う復讐に対しては寛容でありときには共感するという事実にも納得がいく)これは必要であり、不可避なものだが、これを内面化すると、思考の客観性が失われてしまう。また、そのことによって、振る舞いがあつかましくなる。ボランティアのあつかましさには、根本的にこの正義の視点が内在する。なぜ、正義はあつかましくふるまわざるをえないのか。それは、正義は権力そのものだからである。特にこの場合の正義は社会正義であり、社会的な権力そのものである。権力は禁じ処罰する。その処罰の一端を担っているのが、見知らぬ犯罪者に敵意を抱くというような行為なのだ。この権力装置の発動の基礎となる被害者に同情するという行為は、加害者の価値観を無視することはもちろんのこと、被害者の価値観も無視し、自分の価値観を押しつける点で暴力的でありあつかましい。人の感情は原理的に不可侵であり、自分の価値観から裁断して、悲しいだろうと決めつけることは出来ない。そのようなことを勝手にするのが同情という行為である。



 善悪について述べられる言葉は、価値相対主義の前では無力であり、決して届かない。その原因は、道徳のあつかましさと非真理性にある。そのことを述べるためにこの節は書かれたのであって、道徳を他の価値観から批判しようとして書かれたわけではない。道徳は権力とは違い善いものであり、権力と同じく必要なものである。しかし、道徳や権力のあつかましさと非真理性は、思考とコミュニケーションの邪魔になる。自由に思考し、きちんとコミュニケーションしようと思うならば、価値観同士の自己言及的な相対性を把握して、価値について語る言葉は届かないし受け容れられないということを認識するしかない。





4-3  ゲーム理論に基づいた行動の指針



 道徳ではなく、人々の間の利己性を媒介するのはなんだろう。それは道徳など持たぬ動物たちの間にも適用できるはずだ。それはゲーム理論である。ゲーム理論は、パースペクティヴィズムと力への意志説に基づいているといえる。ゲーム理論におけるゲームプレイヤーは、完全に合理的で、自分の利得を最大化しようとする。そしてすべてのプレイヤーが自分の視点からは抜けで得ない。彼らの間には道徳が存在しないので、他人が悦ぶことをしても褒められないし、他人が苦しむことをしても罰せられない。この世界における道徳は、何も強制しないし、何も禁止しない。そもそもゲーム理論は経済学なのだ。人々の行動を理解するために創られたのだ。それは、合理的な行動を規定する。それを無視するのは、ただ合理的でないだけであって、悪いことではない。では、なぜ、それが「道徳」の代わりになるのか。それは、ゲーム理論が、行動の指針となり、人々の間の利己性を媒介するという点で道徳と似ているからである。そして、おそらく、道徳など信じていない人々が指針としているもうひとつの価値体系がこれだからである。



 道徳を信じ込むよりはゲーム理論的思考をする利点は、二つある。

 一つ目は、他者間の会話を可能にすることである。えてして、道徳を信じ込むと人はあつかましくなりがちである。社会全体の幸福に役立つという理由だけで人の行動を制限したり要求したりできると思い、他人の立場を鑑みず、無条件の命令を吐く。そして、その要求が聞き入れられないとヒステリックに怒って会話をやめてしまうのだ。そのような反応に接してきた道徳など信じていない人々は、そのような話をしないようにし、曖昧に振る舞うだろう。価値観の違う他者と会話できないのは、狭量なことだ。道徳は超越的で、ゲーム理論は超越論的である。道徳は教義的で外部からは理解できないが、ゲーム理論は科学的で外部からも理解できる。ゲーム理論において道徳は人々の間の利己性を媒介する一要素として扱われる。道徳を考慮に入れた後の超越論的な利己性を合理性と呼ぶ。不合理な行動はその人の利得を減らすだけであって、別に幸福である必要はないと考える人ならばとりうる行動である。他者の行動を道徳的立場から裁断するのは他者の価値観を尊重できていないがさつな態度である。相手の立場に立ち相手の行動を合理的なものであるとみなし思考しなければ、他者をきちんと尊重し理解することはできない。もちろん中には幸福を望まない理解できない不合理な行動を取る人もいるが、だからといって非難する必要はない。最大限相手の行動を理解しようとすることが会話の必要条件であって、どのような行動においても相手が幸福を望んでいるとする合理性の導入はそのための手段に過ぎない。視点間の原理的な相対性の忘却は、繊細さを失わせ、会話を妨げる。

 二つ目は、会話する相手に何かしてもらいたいことがある場合、道徳のように力と罰を背景に要求するのではなく、相手の利得と意志を考えて要求することができるようになることである。罰を恐れる人々を基本とした社会契約説とは違い、褒美を求める人々を基本とするのがゲーム理論である。そして、罰による要求よりも褒美による要求の方が人々を幸福にするというのは、二十世紀最大の教訓=共産主義の失敗と資本主義が達成したある程度の幸福から明らかである。相手の利得と意志を考えて言葉を喋り要求すれば、相手も自分もより多くの利得を手に入れられるのだ。



 ゲーム理論による二者間の協調には様々な形態があるが、その中で最も興味深いのは「囚人のジレンマ」における協調である。「囚人のジレンマ」における協調の成立条件を通して合理的な行動とはどのようなものであるのかについて説明する。

 共に犯罪を犯して逮捕され取り調べを受けている二人の人がいる。二人とも黙秘を続けている。そのそれぞれに「自分だけ自白すれば、自分は実刑一年、相方は実刑六年。相方だけ自白すれば、相方は実刑一年、自分は実刑六年。二人とも自白すれば、二人とも実刑四年。二人とも黙秘すれば、二人とも実刑三年」という司法取引が持ちかけられる。さて、どうする? 「囚人のジレンマ」とは、こういう話である。相手が裏切るとしよう。そうなったら、裏切るしかない。実刑六年よりは、実刑四年の方がいい。相手が協調するとしよう。そうなっても裏切るしかない。実刑三年よりは実刑一年の方がいい。(ここでは、釈放後の復讐の可能性や信頼関係の崩壊については考えない。共犯者はたまたま手を組んだ顔も知らない人であると考える。また、このジレンマを一般化して考える場合における利得行列ではそういうリスクや観念的な利得も含めて利得の値を出しているとする)どちらにしても裏切る方が合理的なのである。

(図8、刑期による利得行列、刑期は−で表す)

 しかし、これは我々の日々の行動と矛盾する。我々は日々協調的な行動をとっているがそれはどのような理由によるのか。社会契約で説明されるような法的な拘束、他人からの評価といった社会的拘束、道徳や自己評価といった内面的拘束、これらはもちろん人の協調的行動の理由となるが、本質的なものではない。(「囚人のジレンマ」の話は、上記のような自分が生きてきた価値観による拘束が協調の本質的な理由とならないことを巧く表している)では、本質的なものは何なのか。それはコミュニケーションである。

 コミュニケーションによる協調行動の成立として、まず、一度きりの「囚人のジレンマ」における、相手の行動を推量して自分の行動を決定しあうことから成立する協調についてみていく。

 メタゲームと呼ばれるこの状況においては、相手側の方略選択に対してのこちら側の方略選択だけではなくこちら側の方略選択に対して相手側がどのように認知して方略を選択するかを考慮することによるこちら側の方略選択によって、対立的結果だけではなく、協調的結果も合理的な選択になりうるということが証明される。(図9)

 上側が相手側の選択である。協-協/対-協は「こちら側が協調的行動でも対立行動でも協調的行動を取る」を表す。協-対/対-対は「こちら側が協調的行動でも対立的行動でも対立的行動を取る」を表す。協-協/対-対は「こちら側が協調的行動なら協調的行動を、対立的行動なら対立的行動を取る」を表す。協-対/対-協は「こちら側が協調的行動なら対立的行動を、対立的行動なら協調的行動を取る」を表す。

 横側がこちら側の選択である。対/対/協/対は、相手が取る四つの方略に対してそれぞれどのような行動を取るか(この場合は、相手が協-協/対-対の場合だけは協調し、それ以外では対立する)を表す。

 表から三つの均衡解「協-対/対-対にたいする対/対/対/対」「協-協/対-対にたいする協/対/協/対」「協-協/対-対にたいする対/対/協/対」があるのがわかる。これは相手側とこちら側を入れ替えた表でも成り立つ。

 人は多くの場合協調的に振る舞う。惰性でそうしている場合も多いが、相手の思考を推量してそうすることもある。この説明は人の行動を理解するのに役に立つが、ここから人が協調的に振る舞うべき理由は導かれない。一度きりのゲームでは相手が自分の思考を読み(言葉を聴き)理解し行動してくれるか確信が持てないし、対立的に振る舞おうとする相手には対立的に振る舞うのが最適解だからだ。

 というわけで、次に、繰り返し型の「囚人のジレンマ」における協調行動の成立についてみていく。現実には人と人とはある程度の期間の中で関わりを持つが普通その期間は可能無限であるとされる。一般に人間関係はいつ終わるか決まっていない。その場その場で生成される未来の相手の行動の予測とそれに基づいた現在の行動の決定により協調的な行動を取ることの合理性は生成される。

 二人の人に囚人のジレンマゲームを繰り返して行ってもらう。囚人のジレンマゲームなので話し合いはできない。目的は自分の最終的な利得の最大化である。利得に応じて金が払われる。このゲームは相手と競争するゲームではない。だから、二人して協調的行動を取ることが最も最大の利得を二人にもたらす。しかし、相手が常に協調してくれるなら、裏切り続けることで自分の最終的な利得は最大化される。ここでの最適の方略は「協-協/対-対にたいする協/対/協/対」と「協-協/対-対にたいする対/対/協/対」

となる。「協-対/対-対にたいする対/対/対/対」では最低の利得しか得られない。しかし、相手はどうしたらこちらの意図を汲んだ推量をしてくれるのだろうか。この場合のコミュニケーションは行動に依るしかない。相手が裏切った次の回にはこちらも罰として裏切ることによって相手の行動を抑止することができる。繰り返されるゲームでは、相手の次の反応に与える影響を考えなければならない。相手が反応するとみなして行動するのがコミュニケーションである。コミュニケーションによって、協調的行動は成立するようになる。

 このゲームのリーグ戦では、最初は協調し、二回目以降は相手の行動を真似するという方略「おうむ返し」が勝利を収めた。おうむ返しは、礼儀正しい(自分から裏切らない)、短気な(裏切られたらすぐに仕返す)、寛容な(一度仕返ししたら忘れてしまう)、率直な(どのように行動するかわかりやすい)方略である。この方略は、モノポリーにおける「相手が一番得をして自分が二番目に得をする取引を繰り返せ」という教訓を思い出させる。このような人物像がゲーム理論が勧める「よい人」である。

 このゲームのポイントはゲームがいつ終わるかわからないというところにある。いつ終わるかわかってしまったら、その最期の回は裏切った方がよいことになるだろう。なぜなら、その後相手に裏切られることがないからだ。相手もその回が最後だと知っているならば、最後の一つ前の回に裏切った方がよいことになる。どうせ最後の回は双方とも裏切るのだから、その一つ前が実質的に最後となる。このようにして無限背進が起こり最初から裏切るのが合理的となる。まあ、人は明らかに有限なものについても無限だと考えるくせがある。例えば人生は有限であるが、可能無限であるように捉えられる。アキレスが亀に追いつけないという逸話はこのような可能無限についての逸話として理解できる。あれは実無限的に考えれば、微分して追いつく瞬間を求めてお終いにできる。

 死を自覚せざるをえない人間の行動の説明としてはゲーム理論は不完全である。自然が協調的行動を取ることを当然としていても、死を自覚した人間の合理性は非協調的な行動をとることを合理的とする。だから、死という終わりを自覚しないで済むようなゲームにすれば、人は協調的行動を取る。

 実際に終わりを決めないでも、死を見つめれば、合理性から自由になる。死ねば幸福でも不幸でもない。幸福を望むならば協調した方がよい。自分の幸福を、それゆえ他人の幸福も、望まない行動は不合理だ。



参考文献
N.Howard"Paradoxes of Rationality"1971 藪内稔「ゲームの社会心理 さまざまな人間関係」、東京大学公開講座69『ゲーム 駆け引きの世界』、東京大学出版会、1999
R.アクセルロッド「つきあい方の科学」(松田裕之訳)、HBJ出版局、1984
ウィリアム・パウンドストーン「囚人のジレンマ」(松浦俊輔他訳)、青土社、1995 




4-4  自由?



 利他性は、パースペクティブ間のコミュニケーションに基づく合理性に支えられている。だが、自他は圧倒的に非対称だ。自分の死は世界を終わらせるが、他者の死は世界内の出来事である。ゆえに、窮極的には言葉は人の行動に影響を与えることはできない。事実は言葉よりも現実的だ。幸福であろうとしない人には言葉はなんら影響を与えないだろう。言葉は、幸福であろうする人に大きな影響を与える。だから、きちんとした言葉を吐くためには、きちんと相手のことを考えられる必要がある。相手の幸福を考えて言葉を吐くこと、これがゲーム理論が教える道徳であろう。もちろんそれの限界ははっきりしている。自他は圧倒的に非対称なのだ。人々の幸福と自分の幸福が妥協点のない矛盾をすることはよくある。自由尊重主義はパレート最適(他の誰かの状態を悪化させることなしにはもはや自分の状態を改善できない状態)と両立しない。そのときは人はわがままに振る舞う方がよい。長い目で見れば自分を幸福にしない不合理に見える行動は、短い目で見れば理解できる。永遠を微分して瞬間にしてしまうようなこと、言葉を使ったすべてのことをやめてしまえば、死を見つめないで済む。