5 エクスキューズ

  言葉が個人に基づくというのは事実である。それはどうしようもない。全く無意味な文章も、ただの引用文も、それをそこに書いた者の意図を見せつけずに提示することはできない。言葉を吐くということは、自分の世界観を提示するとみなされるということなのだ。言葉を吐く行為は、常に、なんらかの世界観に基づいたもの・価値を持つものとみなされざるをえない。意図を見出せえない言葉は、完全に狂っている。だが、そこにおいても「完全に狂った言葉を吐く」という意図を見いだしうる。そして、私が正常な人間であると周りの人々から認知されている限り、どんな狂った言葉を吐いたって、人々は意図を見出すだろう。意図がないことを意図しているとみなされるより他はない。(みなされるより他がないと言うのは文法的な限界であって、ただの事実である。語れば、超越的に意図がない言葉を吐くことを私が意図しているように聞こえるだろうが、そうではない。語ってしまえば全く違うものに変質してしまうただ示されるべき事柄について無理矢理語っているのだ)

 世界観に基づいて喋っているとみなされざるをえない人間において、相手の価値観に影響を与え自分の価値観を世の中に通用させていこうという意図を持っていず、他人の価値観に対する言い訳それも特に個人的な価値しか持っていないわがままで身勝手な言い訳が、エクスキューズである。自分の存在は、常に正当である。しかしその正当性は自分以外の存在者に理解されうるものではない。存在の違いは世界の違いである。言葉は現実をつくりだす。現実は存在の正当性が認可されるような空間ではない。存在の正当性は言葉にすれば存在者の正当性に変質し、相対化されてしまう。これが避けられないことを踏まえた上で私は自分の存在の正当性をエクスキューズした。

 多くの身勝手でわがままな人々が言葉がつくりだす現実において虐げられてきた。そして誰もが本質的に身勝手でわがままなのだ。ゆえに、身勝手でわがままな人々を非難する言葉は、非難される側にとってナンセンスなのだ。名指しで非難される人は存在者として非難されるが、存在者として生きているわけではない。ただ存在しているだけなのだ。このエクスキューズはただそのことをはっきりさせるためだけに行われる。言われることなど何もないのだ。そして、また言えることなど何もないのだ。