3 ウィトゲンシュタインの言語ゲーム

  3-1  論理哲学論考の言語の不完全性定理的把握



  論理哲学論考は、「<存在する私>は<存在する私>だは証明できる」を公理とした綺麗な言語運用系である。そこでは、超越論的主体が世界を構成している。「<存在する私>は<存在する私>だは証明できる」を公理として付け加えた言語運用系は、そもそも主体同士のコミュニケーションなど考慮に入れない完全でω-矛盾な言語運用系を築くことが出来る。ω-矛盾であるから、語り得ない領域が出来る。論理哲学論考においてそれは存在と価値に関する事柄であった。

 ω-矛盾「(私を含めて)誰もが超越論的な主体であるが、私は超越論的な主体ではない」。私はただ存在する。だがもちろん、存在し世界を構成するのが超越論的な主体なのである。公理である「<存在する私>は<存在する私>だは証明できる」を語り得なくすることによって、論理哲学論考は見かけ上ω-矛盾でないように見える。「私がこうして世界を構成している」という命題は、「水野創太がこうして世界を構成している」ではなく「(読んでいる)私がこうして世界を構成している」と把握される。唯一の存在が、その唯一性を保ったまま複数の人に妥当する。だが私は唯一の存在なのではなく、ただ存在する唯一のものなのである。ω-矛盾。矛盾しつつ、完全な言語運用系をつくるために、私的な自己言及の不可能性「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」が最後に語られる。超越論的主体とその世界について明晰に語り、そのことによって超越論的主体ではない<存在する私>を浮かび上がらせる。倫理は超越論的主体に関する事柄であるからその内容については語らない。ただそれがあるということについては言及する。<存在する私>は語られずただ示される。その場合の<存在する私>に言語運用系の中での場所はないのだ。ただ公理としてすべてに先立つものとしてある。



  3-2 哲学探究の言語の不完全性定理的把握

 哲学探究は、「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」を公理とした雑然とした言語運用系である。そこでは、人々が世界を構成している。「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」を公理として付け加えた言語運用系は、主体同士のコミュニケーションの根本的な不可能性を含んだ不完全でω-無矛盾な言語運用系を築くことが出来る。不完全であるから、語り得ない領域は出来ない。語り得ないことは語ろうとすればいくらでも語れるからだ。無限に語り続けても「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」というのが不完全さである。その体系は不完全であるが、ω-無矛盾である。言葉は矛盾を認めずどこまでもコミュニケーションを続けようとする。自他の圧倒的な非対称性とそれを言語化するときに起こる矛盾は言及されない。だから倫理についても言及されない。伝わってしまう一般的な倫理など宗教的超越的生を生きるウィトゲンシュタインにとってはどうでもいいことだった。言葉で語ってしまえば誰にでも妥当する自己の存在の特別性・唯一性。きちんとした形式的体系にはこれが認められる場所はない。これに言及するとω-矛盾が起きる。<存在する私>はいつも誤解されざるを得ない。この<存在する私>は、これを読んでいるあなたではない。この私、水野創太という固有名で名指されるこの私なのだ。もちろん人は時々「この世界は君のものなんだよ」といった言葉を吐く。「痛いのは君だけだ」というように相手の存在に言及し共感する。だが、このような言葉は「愛している」といった言葉のように見え透いてる。我々の文法は、超越論的主体を必要とする。相手の存在については語りうるが、そのとき語った言葉は常に相手の超越論的主体について語っているとみなされる。(そうみなさないならば、その人は幻惑状態にある。超越的な言葉を信じるのもいいが、超越的な言葉は言語運用系の公理をいじくるので少数の人にしか理解されないし、その公理が体系と一致しないことがわかれば幻惑状態は覚めてしまう)相手の<存在する私>について語るのは明白に体系と一致しないので冗句的だが、自分の<存在する私>について語るのも明白に体系と一致しないので冗句的だ。ω-矛盾について語ることは冗句的でしかあり得ない。いくらかおもしろいがそれが体系群の中で公理として採用されれば幻惑状態に陥る。自他の圧倒的な非対称性とそれを言語化するときに起こる矛盾についてどこまでも理解し合うことによって、他自の圧倒的な非対称性に到達することは出来ない。言語によっては存在の違いは乗り越えられない。もちろん、何によっても存在の違いは乗り越えられない。存在の違いは乗り越えるのではなくて消えてしまうものだ。座禅を組んだりしてそういう体験をすることは出来る。生まれたばかりの時は存在の違いなど無くただ存在していた。存在の違いは言葉を消すことによってしか消せない。これは言葉というものの定義から派生するのだ。言葉を使えるようになるには超越論的主体が必要である。そして言葉を使えるようになったら、存在は超越論的主体に変わっている。超越論的主体同士の違いが存在の違いをつくる。だが、そもそも存在に違いはない。存在の違いというのは、超越論的主体同士の違いからつくられる問題なのだ。だが、これは言語においては大きな問題である。他者とのコミュニケーションの根本的な不可能性はここから派生してくるように思われるからだ。しかしコミュニケーションの可能性についてなど考えるのをやめれば、存在の違いは超越論的主体同士の違いに還元される。相変わらず、<存在する私>は<存在する私>だは証明できないが、<存在する私>の証明は我々の言語が見る夢であり、証明せずともそれはある。証明しようとどこまでも語り続けることも出来る。この言語運用系では言語が不完全なため証明できないが、違うω-矛盾な言語運用系ではそれを公理として付け加えることも出来る。しかし、機械において他の部分と一緒に回らない歯車に意義はないのだ。たとえそれを付け加えることによって機械が完成するとしても。



  3-3  言語ゲームを生きる態度



「痛い、痛い、痛いー」

「ふふっ、痛いって言ったからってそれが伝わるとでも思ってるの?」

「いや、ぜんぜん思ってない。でも痛いのよ、ほんとに」

「ふーん、そう」

 これが言語ゲームを生きる態度である。

 ウィトゲンシュタイン言語ゲーム村上春樹言語ゲームと似ている。アナロジーが多用され、たまに図が挿入され、どうでもいいことについて延々と面白く述べることによって図地反転が起きるようになっている。もちろん地だけを見て図を見ずにいることもできるし、むしろそうするようになっている。初期には倫理に言及してみたりする煩悩を捨て切れていなかったが(論理哲学論考風の歌を聴け)、後期ではそんな煩悩は切り取られている(哲学探究ノルウェイの森)。どうでもいいこと=言語ゲームについてただひたすらに語り戯れる文章。もちろん、語りうることはすべてどうでもいいことであり、すべてが語りうるのだから、すべてがどうでもいいのである。だがそう述べても語る主体は消えない。超越論的主体は残ってしまう。これについてがりがり語っていくことで超越論的主体を確立し<存在する私>を消去する。私的規則のばかばかしさ(なぜならどのような行動でも規則に一致させられるから)や私的言語のばかばかしさ(感覚は私的なものだがそれは定義的に私的なのである。言語から離れた私的な感覚なんて語り得ない。それを語り続けることはできるが)について語るウィトゲンシュタイン言語ゲームと、趣味的な私的規則や超越論的な私的言語について語る村上春樹言語ゲームは、共に超越論的主体を確立し<存在する私>を消去することを目指している。しかし、それは<存在する私>という図を浮かび上がらせるための手法なのだ。だが、伝わらない図でもなるべくなら伝わらないということは伝えておきたい。まあ、別に見えない人には見えなくても構わない。浮かび上がった図は伝えたいものとは違うのだから、図など浮かび上がらない方がよいとも言える。地について書き地について伝えるのもよい。そうすれば伝わるのだから。言葉をすべて戯れとしてコミュニケーションに捧げる言語ゲーム

 言葉がゲームであるということが、言葉の基礎なのである。言葉がゲームであるとは、言葉が戯れるためにあるということである。生きていくのに必要なコミュニケーションは行動で示される。動物としてのコミュニケーションだけで生きて行くには充分なのだ。(狼少女は狼として生きていくことができよう)

 戯れであるとは、どうでもいいということである。子どもの頃、言葉は外在的であり、どうしようもない。また、大人になってからは、言葉は内在的であり、どのようでもいい。言葉を内在的に捉えるのが言語ゲームである。語りうる言葉は一つしかないが、それは私のものではない。どうしようもない束縛からどのようでもいい自由への転換がどうでもよさを生む。どうでもよさは、どうしようもないどのようでもよさだ。

 言葉によっては言葉によって伝えられることしか伝わらない。同語反復はいつも明晰だが、無意義だ。しかし、こうとしか言いようがない。言葉によって、痛みだって、存在だって、何だって伝えられてくる。定義的に伝えられない感覚についても、我々は語り合える。なぜなら、伝えられてくるものが痛みや言葉だからだ。語り合えるならば、既に充分伝わってきているのだ。伝わるとは、言葉が誤解されていないということである。「青りんごを買ってきて」と頼まれて、青りんごとは青りんごのことだと思っている人が青りんごを買ってこようと思い、間違えて梨を買ってきてしまった場合、我々は言葉が伝わったが間違えたのだとみなす。「青りんごを買ってきて」と頼まれて、青りんごとは梨のことだと思っている人が梨を買ってこようと思い、間違えて青りんごを買ってきてしまった場合、我々は言葉が伝わらなかったが間違えたとみなす。伝わるということは、ある反応を引き起こすというのとは違う。理解は言葉全体と整合性がなければならない。しかし、矛盾していない言葉全体は不完全である。他の人に説明することが不可能な領域がある。だから、理解の言葉との整合性は局所的に行われる。局所とは、価値論理系であり、一つの人格である。そこではいくつかの公理と推論規則が選択されている。その中で「緑色のりんごを青りんごという(+梨の映像)」という命題が真であることはありうる。この個人的言語同士の齟齬が判明した場合だけ誤解が生じる。判明しなかった場合、誤解は正されない。私は他者の痛みを理解している。ただ感じていないだけだ。私は他者が存在していると理解している。正されない誤解は、誤解ではない。正された誤解は、誤解である。言葉で表現できるものすべてが正されうる。他者の存在もその一つだ。言葉全体と整合性を保ったまま、他者が存在しない言語運用系をつくることは可能だ。(自分の死について考えてみればよい)それが誤解であるということは証明できない。誤解でないということも証明できないが。他者の存在についての誤解は、青りんごについての誤解とは違う。他者が存在しないことについて他者と語り合うことができる。独我論は伝わる。伝わったことはすべて誤解であるという点を含めて。

 では、なぜ伝わらないと言い張るのか。語り得ぬものがない人には語りうるものも存在しない。自分は語り得ぬものについて語るなというくせに、語り得ぬものがないように振る舞う人を彼らは嫌がる。言語ゲームを重大視し、どうでもいいことをいっぱい語るのに、彼らは言語ゲームの背後に独我論を持たないでそう語る人を批判する。伝わらないことを意図して言語ゲームは行われる。理解されたくないのだ。理解されたならば、それは端的に間違っている。コミュニケーションは理解することではなく、お喋りすることだ。喋りあえるなら、それなりに仲良しなのだ。饒舌な否定は、寡黙な襲撃よりは好意的だ。きちんとした否定は行動でなされる。我々の言語ゲームは存在の伝達を夢見て、違うことを伝えてしまう。それは世界の素材の違いに由来するので仕方がない。情報だけでも伝わるのをよしとしなければならない。情報の伝達の正誤は、より多くの情報のやりとりによって確かめられる。だが、間違っていて当然なのだから、情報は微量でよいのではないか。いや、そうではない。情報は正しく伝えられてはいけないのだ。自己の感情が確定されることが嫌なのだ。だから、無意味な情報を大量に送る。しかし、ただの無意味な情報は、ただの無意味な情報でしかない。それを意味付ける文脈が必要だ。文脈は多くの人に伝わるように公的かつおもしろいものでなければならない。