ジェンダーバイアス・家族制度の解体

OSOBA KK■Girls be ambitious!!

ジェンダーについて考えることは、割と必須で、さまざまな社会的現象について考える上で欠かせない。アンケートをとって統計調査をやると男女で分けてやらないとうまくいかなかったりして、人の思考におけるジェンダーバイアスは大きいのだなと実感する。

生物学的な差によって、好む役割に差が出るのは理解できる。パイロットに女性が少ないとかね。しかし、基本的には個体差が大きい。パイロットになる女性もいるってことね。
人を個人として扱うというのは基本的な倫理であり、それは多くの人は行っている。しかし、行動を行うに当たって、また個々の選択を行うに当たって、相手のことをよく知らない場合だと、一般的フレームワークに基づいて相手を判断してしまう。印象による判断は生活する上で非常に有効だからだ。情報処理を効率化しないと生活していけないからね。
同じように役割を人は人に押し付ける、もしくは合意の上で分担する。「姉」として育てられれば姉になるし、「妹」として育てられれば妹になる。
無意識の行動・他人を思いやったり思いやらなかったりする非繊細さ、自分の価値観に気づかない鈍感さ、そういったものを通して、権力は作用する。いつの間にか行われる予期によって(フーコーの生政治の概念・宮台真司の「権力の予期理論」が参考文献)、人は動く。

人のことを印象で判断する場合でも、その印象を選択的な行動に結びつけないこと(簡単に人を嫌いにならないこと)。論理的に判断できる情報を収集して他人の理解に勤めること。役割と人格を結びつけて判断しないこと。(性格なんて関係性の中にあるものであって、自分がそう思っているだけ。自分に対するその人の印象を中心に判断するものだからさ。役割は役割であって、それに依存したコミュニケーション=敬語とかねを尊重しないこと)
そういうことを行えば、ジェンダーバイアスに捉われた判断をしないで済むようになるだろう。それでどんないいことがあるかっていうと、判断の質が向上して、より目的合理的な意思決定ができるようになる。情報を集めれば視野が広くなるから、合理性が変容して、より大きな目的に近い有意義な意思決定ができるようになる。
でも、血液型占いみたいなまったく非科学的な統計的に有意ではない、運命論的に性格を判断するような傾向が蔓延するような、自分で情報を収集し判断することを避けることを好む人が多い、状況ではなかなか難しい。だが、印象的判断をしない人が少ないということは、合理的判断をするだけで随分と有能さが増すだろう。
でも、優秀な人々に恵まれない環境で育ったら、役割とかに埋没して、その後その役割を人にも押し付けるようになるんだろうなあ。(それはそれでいいんじゃないかという相対主義には僕は与しない。倫理的なイデオロギーだけど、僕は個人の自由を何よりも優先して今のところ行動するようにしているので。)

まあ、これから情報化が進めば、ジェンダーバイアスも減っていくでしょう。バイアスがかかった判断なんてのが蔓延している組織は、生き延びられなくなると思う。消滅すべき組織は多いけどね。どうにかしないと。

問題は、男女の衡平な扱いが進んだ際に、出産と子育てにまつわる諸々をどうするかだ。人類再生産は人類として当然だとして、公正に扱うためにアファーマティブアクションを行うのが政府の進めている政策だが、効率性に問題が生じるために企業はそれから逃げようとする。補助金などによって子供の出産を奨励するのにも限界はあるだろう。日本では少子化は避けられない。(若年移民を受け入れれば別)
子供の出産と子育ては、非常に高価である。機会費用も含めると多くの人にとって人生で最も高い買い物だろう。

そこで、ここで日本の政策として提案したいのは、家族制度の解体である。少子化の消極的促進と新移民政策をそれの支援として行う。
まず、目標として、日本の生活水準と世界の生活水準を掲げる。
現行の結婚制度を捨て、子どもは一人の保護者を中心に教育機関が連携して教育を行う。つまりシングルファザー・シングルマザーを一般的な形態として税制面で奨励する。しかし、過度には奨励しない。日本において子どもは非常に高価だということを徹底する必要がある。そうすると子どもを育てることに多くの効用を見出す人のみが自ら子どもを育てることになるだろう。教育関係者として自分のではない子どもの教育に参画することを進めるなどして子どもを育てられない経済環境にある人も子育てに携わることが出来るので、子育てをしたい人はそのようなボランティアなどを行えばいい。ずっと基本的に少数人で子育てをするのは、一般的な人にとってけっこうつらいものがあると思うので、たまに知人の子どもと遊ぶくらいが楽しくていいんではないだろうか。
夫婦の行方については、基本的に一対一の長期契約関係を、多対多の任意の期間の関係に改める。家族制度の成立は人類発祥にまで遡るが、現行のような小規模な核家族は近代的なもので、地域まで含めた関係の中で子どもの教育を行ってきた歴史が長い。幸福な核家族などという幻想は、高価で抑圧的な檻と成り果てるだろう。家族幻想は一部の人が高価な代償を払って求める懐古的な楽しみとなる。夫婦という関係については性的な幻想は強く人の心を縛るものだから、なかなか転換するのは大変かもしれないが、多様な形を許容するとし、夫婦を単位とした差別的な税制を改めればそれでいい。現行の夫婦中心の家族制度を解体し、親子という保護関係と広い意味での学習支援集団によるサポートが家族にとって代わるだろう。ロマンチックラブと家制度の組み合わせによる近代のオイディプス三角形はもう終わってる(cf:アンチ・オイディプスbyドゥルーズ=ガタリ
そうすると、日本では人口が減少傾向となり、老齢人口を支えられなくなる。そこで、老齢人口の中国やニュージーランドや日本の田舎などへの移民を促進し、大規模な保養地をつくる。そうすれば、個人資産がそれなりでも相当豊かな生活が送れる。これはお金持ちの消費者が移住してきてお金を使うので現地住民にとってもプラスである。移住先での移住者と現地住民を中心に世界の生活水準にとってプラスとなるだろう。
経済は人口減少に対応したかたちにするために、グローバル化を進め、世界的な分業を人口移動もある程度含めた形で行っていく。基本的に知識を売っていく国家として、ナレッジサービスやプロダクトの企画を中心に、低付加価値人材はコミュニケーション系サービス業で吸収する。そうすれば、個人資産も莫大にありインフラも整備されているので生活水準は維持・向上できるだろう。
って、ここまで書いてきて、これって基本的に政府が取っている政策と同じ方向性だと思うんだよね。一部逆行するような動きもあるけれど、基本的にはこの方向だと思う。少子化対策は限定的に行う・移民は受け入れないって人口政策がこの考え方の主眼である。ただの無策かもしれないが、悪くない方向だ。何もしないっていう政策と規制緩和が日本でこれまでうまくいった政策だと思う。マクロ経済政策や教育政策などちゃんとやるべき政策は多いが、まあこういう方向に進むのではないか。年金と税制を変える必要があるけど、いずれ変わるでしょう。

というわけで、自立することはこれからの人生で必須だなあと思いつつ、主夫にはなれないなあと思い、お金をがっつり稼いで、アーリーリタイアメントを目指さねば、思い通りの生活を送れないと考えた。うーん、自由に暮らせる資産がほしい。

※出産については女性しかできないのだが、テクノロジーが進歩すれば解決されるかもしれない。養子や代理母が現在実現されているけど、マトリックス的な胎内が発明されて、精子卵子だけ組み合わせるとか、クローンとか、できると思うけど、やらないだろうなあ。
倫理的な側面も考える必要があるけど、コスト的に見合わないので小規模に不妊治療などに使用されるだけに留まると考えている。

ジェンダーバイアスや差別的な制度に憤るのは当然である。だが、人類の再生産を盾にアファーマティブアクションを進めるのはよくないと思う。企業のインセンティブを歪め、人々の認識を曇らせる。子どもはどうしようもなく高価なものだということを男女ともに認識し、出産を選択的に行うことを奨励すべきだ。せめて、子どもを産み育てることは当然といった認識を、家を買うのが当然とか、車を買うのが当然といった迷妄と同様に、是正する必要がある。子どもも家も車もそこから得られる効用を得ることが目的である。(あまりにも経済合理的だが、顕示的消費やサービスの値段といったものまで含めて考えれば、現在の状況もいくらか証明できる。家族という制度の分析も必要かもしれない)
主婦が主夫に比べて、実現可能性が高いと考えられているような社会は長くは続かないだろう。シャドウワーカーではない、楽しい主夫/主婦(ヒモ?)になれる人は若年世代では減ってきている。
今でも、男でも女でもジェンダーバイアスがひどい。とても賢い人が家族や夫婦といったファンタジーについては、ジェンダーバイアスにまみれた見方をしていることが多くて、びっくりする。「現実的な見方」ってやつがそうして支えられていく。そのような考え方をやめれば、男女間については衡平な世の中が実現するだろう。同系の問題は世代間にもあって、ジェネレーションバイアスもひどいものがある。また書こう。
多くの人は、きっと、ちゃんと考えるのがいやで、印象で人を判断して、様々な役割を担い担わせ、自分のファンタジーを守っていくんだろうと思いつつ、現実がそのような甘い観念を破壊したときに悩むのだ。

子どもを育てることの経済合理性なのだが、教育投資として考えるのが最もフィットする。ビジネススクールに二年間通うよりも、子育てに数年間を費やすほうが成長する人は多いのではないだろうか。
しかし、高価なことには変わりがない。まあ、学費よりは安いか。奨学金のように子育て奨励金を出すのは合理性があるんだよなあ。
教育なので、そこからの投資収益はめちゃめちゃ高くなりうるけど、学習する側の行動によるだろう。
極楽にも地獄にもなりうるというのが、教育投資と同じだなあ。