キャリアについて考える4:生きるための水が湧くような思考

kumapiano

ウェブブック『生きるための水が湧くような思考』(梅田望夫著)を読んだ。

梅田望夫さんの本を読むといつも心が洗われる。「ウェブ進化論」のときもそうだった。あれは、日本のベンチャービジネス市場がライブドアショックでクラッシュしているさなかに売れた。

しかし、その感想を述べる段階になると、個人的な感情が先にたってしまい、いつも気恥ずかしい思いを抱く。梅田さんの言うような意味でのロールモデル的な対象の方にふみを書くときには、誇らしいことしか述べたくなく、また、公開しているブログの上では尚更だからである。しかし、今日は、誇らしいことは特にない。

2004年3月、渡辺千賀さんや梅田望夫さんや村山尚武さんが主催した四年前の第一期JTPAシリコンバレーツアーのときから既に四年半たつ。
その年の夏にスタンフォード大学で一ヶ月の語学文化交流のための夏季研修を受けた。
春はさわやかに暖かい陽気で、夏は昼は乾燥していて暑く、夜は少し肌寒かった。その年の記憶は鮮明である。

JTPAシリコンバレーツアーまとめ
これが、第一回目のシリコンバレーツアーの際の私の感想である。
それから4年半たった。20歳だった私は24歳になった。いろいろあった。
相も変わらず、キャリアについて模索している。



ウェブ時代をゆく」では、コミュニケーションネットワークをベースとした情報と知と経済と力の組み合わさった「もうひとつの地球」について述べている。いわゆるインターネットは人々の注目と関心の在り方を変えて、それが、グローバルガバナンス機構の再編につながっていくだろうという話である。それに対応して個人がどのように振舞えばよいのか、実践的な処世術にこそためになるところが多々ある。

(ウェブ進化は)「知と情報のゲーム」のパワーで、私たち一人ひとりの心の在りように変化を促していく P50
「自分の頭で考え続け、どんなことがあっても絶対にあきらめない」P97
日本社会もずいぶん大きく変わったと過半数の人が感じる時期を「二〇一五年あたりから二〇二〇年あたり」とイメージしている P198

まとめるならば、この三点になろう。しかし、重要なのは、ここの文章に述べられている時代背景やそれに即した処世術の部分なのだ。「学問のススメ」のように。


ウェブ時代をゆく」終盤でインデックスだけ引用されていた詩篇であるThe New Colossus エマ=ラザルス、1883年作を読んだ。詩篇の作者による、自由の女神像の意味づけがおもしろい。コロッサスというのは古代ギリシャの島につくられた巨大な銅像灯台のことで、「ロードス島の巨像」として世界七不思議のひとつである。それを参照しているのが詩篇の前半である。
後半については、書籍やリンク先でも述べられているので中盤について述べよう。

A mighty woman with a torch, whose flame
Is the imprisoned lightning, and her name
Mother of Exiles. From her beacon-hand
Glows world-wide welcome; her mild eyes command
The air-bridged harbor that twin cities frame.

大文字と小文字による分の切れ目のつくり方は、読むほうに多様な解釈を許す読み方となっている。無理やり私なりに日本語訳に超訳したものを以下に述べよう。

トーチをかかげた鉄腕の女。燃えるトーチがとらわれ輝く。女の名はるろうにの母。ビーコンハンドからワールドワイドウェルカムがのびゆく。女の穏やかなまなざしは、海峡を挟むツインシティを切り取る。

トーチをかかげたあのポーズと視線が、自由への姿勢なのである。




ウェブブック『生きるための水が湧くような思考』(梅田望夫著)を読んだ。
梅田さんの書き下ろし書籍は、新書でありながら圧倒的に質が高い。たとえば、本田直之の「レバレッジ勉強法」や勝間和代の「効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法」と比べてである。
読み進むたびに考えつつ読まねばならない。速読するとあとで、もう何度か読むことになる二冊の書き下ろし書籍だった。
このウェブブックは、そこまでまとまっていない。むしろ、本田直之勝間和代の本に近い。だからこそ、実践的であり、すぐにでも取り入れられる考え方がふんだんに盛り込まれている。そして閲覧無料であり、(プライベートで行うなら)自由にコピー&ぺーストできる。


そこで、「精緻なMBAカリキュラム」“自家製”の勧めを、私がやり始めました。ハーバードビジネススクールとロンドンビジネススクールスタンフォードビジネススクール関係者と話したことはあるので、そこで行われていることについては推測がつきます。(SFC学部の教員が各ビジネススクール関係者で、お話しました)
MBA取得は、人脈や討議など、アメリカ合衆国移住を志している裕福な方なら投資に見合うリターンを得ることはできるでしょう。しかし、自学自習の高速道路がひかれた今ならば、それを駆けてみるのも人生の一時期を費やすに足るゲームではあります。アウトバーンを走るように制限速度なしで学習したいものです。
しかし、ゴールの設定が難しいので、公認会計士資格の独学での取得をひとつのゴールとします。最近、一次試験+三年以内積み立て型科目合格式に変わり、資格学校を利用しなくても、さまざまな分野の人が取得できるようになりつつあるという、日本で役に立つ経営関係の資格です。専門分野は多少偏りますが、背景に米国式経営学の知識があれば、独学での経営管理修士(MBA)の代わりになるのではないでしょうか。理論を実践的な知識とマージさせながら、脳内の知的体系を再編する作業を、ちょうど、ここら辺で行いたくなっています。



生きるために「読み」「書くこと」で生きる

これまでにたくさんの本を読んできたけれど、精読して知を溜め込むことに私はいっさい興味がなく、内容を記憶する習慣もなく、そのときどきの人生における喫緊の問題に何らかの指針を得たいという一心で、自分が欲している信号を求めてさまよう読書だった。「生きるために水を飲むような読書」と言えば近いだろうか。内容を記憶していないだけに、愛読書たちは読み返すたびにかえって新鮮だった。そしてつくづく自分が読書によって人生を切り拓いてきたのだなと思い、ありがたい気持ちになった。

「生きるために水を飲むような読書」の内容について述べられるのがこの文章である。
私も、ある種の文章はそのようにして読んできた。(まあ、しかし、教科書だってもちろん読んだ。教科書の概念を分析再利用して考えるのは有意義なのだから。別のところで梅田さんもそのようなことを述べているのでここの精読〜の文章はレトリックではある気がするけれども)
村上春樹の文章はそのひとつであるし、村上龍の文章もそうだった。中高生の頃に読んだ永井均の哲学の本も、クリティカルに考え方に影響を与えていた。
飲んだ水は、体の浸透圧の調整を通して、体内の物質のバランスを変化させる。本当は水のように飲める文章は少ない。いつも飲む文章はガスか砂糖のようだ。
気持ちよく、水を飲むには、体調と気分と文章の内容と文体とみかけと流通がそろっていれば、最高だ。

私が水を飲むように飲んできた文章は、最近では、自分のブログの文章だった。昔の自分が書いた文章というのは、現在の自己を形成している文章であるのだから、読むと水のようになじむのは当然なのだ。オフラインの自分よりもウェブ上に印刷された自分のほうが一貫性があるようにさえ思えた。

私が水を飲むように飲んできた文章で、ここ最近、読み返している文章がある。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の第1章「ハードボイルド・ワンダーランド:エレベーター、無音、肥満」と第27章「ハードボイルド・ワンダーランド:百科辞典棒、不死、ペーパークリップ」である。
14歳のときに初めて読んで、その後、90年代に好きな部分の文章を読んでいた。そして、20歳のとき2004年に通読して読み返した。それをまた2008年に読み返している。
第1章と第27章から一箇所ずつ引用しよう。

第1章「ハードボイルド・ワンダーランド:エレベーター、無音、肥満」
エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。しかし正確なところはわからない。あまりにも速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまったのだ。あるいはそれは下降していたのかもしれないし、あるいはそれは何もしてなかったのかもしれない。ただ前後の状況を考えあわせてみて、エレベーターは上昇しているはずだと私が便宜的に決めただけの話である。ただの推測だ。根拠というほどのものはひとかけらもない。十二階上って三階下り、地球を一周して戻ってきたのかもしれない。それはわからない。

これは冒頭の一文である。旅に出る移動時の重力変化に対する感覚を表現している。まるで100年後に書かれたスペースエレベーターが常用されている世界の文章のようであり、東海道新幹線で東京1985から新神戸1985へ移動するときのことを比喩的に表現しているようでもある。
また、村上春樹の作品では、井戸=id、古い井戸=old id=fluid=フロイドのような、和語と漢語と英語が混交した語呂合わせ的な暗喩が使われているのだが、この作品では第一章から、プルーストと黒いうどと吊し井戸とうるうどしの区別がつかない状況になったりもしている。
英語と日本語、手書きとワープロ、そういった変化を、当時の村上春樹は、バブル前夜の東京で楽しんでいたようだ。
ワープロだと音素で入力して漢字に変換するので、文体が変わる)
この作品は、優れた小説の多くがそうであるように、時空を超えて訴求するテーマをえぐりだし描ききっている。しかし、一言でいうならばこの小説は私にとって今「現代東京小説2002」なのである。シンガポールも北京も上海も台北もソウルもロンドンもニューヨークもフランクフルトも、911同時多発テロ2001以降、ここに描かれている意味でハードボイルドワンダーランド化・東京化した。
東京はサリン事件1995以降、やみくろ跋扈・記号化世界・計算士のためのハードボイルドワンダーランド的な状況になった。
計算士というのはこの世界で組織(システム)に属して働く、脳を使った生体利用型の情報セキュリティエンジニアである。要は、頭脳労働者の比喩なのだが、職業のディテールがおもしろいのである。正直、私は、この作品の主人公に憧れていたところもあり、情報セキュリティについてはけっこう学習した。
この作品では世界の終わりとして描かれる、一方の在りし日の神戸1955-65は、阪神大震災で壊滅した。これは、今から考えるとおもしろい一致である。作品内部の物語の流れと単なる歴史が後の視点から見て一致しているように見える。この作品はともかく、「風の歌を聴け」の舞台も壊滅しているのである。時の変化だけではなく。
この作品の続編が海辺のカフカなのだが、今度はなぜか高松が舞台だったり、東名阪高速ロードムーヴィーだったりする。これにも強いインパクトを僕は読んだとき感じたけれど、結局、もう一度、世界の終わりとハードボイルドワンダーランドについて考えてみることになったのだった。

第27章「ハードボイルド・ワンダーランド:百科辞典棒、不死、ペーパークリップ」
「そうすると、この記憶の新たなる生産はこれからもどんどんと続くわけですね?」
「そうなりますな。簡単に言えばデジャ・ヴュのようなものです。原理的にはあまり変わらんです。そういうのがしばらくつづくでしょう。そしてそれはやがてその新しい記憶による世界の再編へと向う」
「世界の再編?」
「そうです。あんたは今、別の世界に移行する準備をしておるのです。だからあんたが今見ておる世界もそれにあわせて少しずつ変化しておる。認識というのはそういうものです。認識ひとつで世界は変化するものなのです。世界はここにこうして実在しておる。しかし、現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんです。細かく言えばあんたが足を右に出すか左に出すかで世界は変わってしまう。記憶が変化することによって世界が変わってしまっても不思議はない。」

村上春樹の文体は、現代日本語を大きく変えた。日本語には1970年代に断絶があるのだが、戦前をひきづっていない日本語として登場したのが、夏目漱石の日本語の後継者としての村上春樹の日本語である。どちらも、英語から日本語への影響を、英語文学から強く受けている。日本語での日本での文学らしき本の累積の売り上げの一位と二位が村上春樹夏目漱石である。
そうして、私が本を読み始める頃には、二人とも日本語表現上でフォロワーを大量に出し、既に確立したスタイルをもった大御所だった。
だから、漱石を読むように、村上春樹を読んだ。それは小沢健二の歌を聞くのと同じような意味をもった。

この第27章で描かれる世界再編の理論面というのは、無限論におけるカントール対角線論法を使った論理的体系の自壊手法である。
これは、コンピュータープログラミングにおいては、チューリングの停止問題ベースの再帰的手法によるループバグのことである。ゲーデル不完全性定理で表されていることであり、これはどの形式的体系に対しても適用できるので、人間の脳でも神経系の下位レイヤーで起こることはありうる。というか、起こっているのだろう。

日本語学習話者においては、村上春樹の文章を読んで意味を理解するか否かによって、日本語・英語・他言語・数学・様々な言語的体系を含む個々人の脳内にある意味の体系において、意味の体系の理解にかなりの違いが出ると思う。
たとえば、プログラミングにおいて、Lispを書いたことがあるか、Plologか一階述語論理で考えたことがあるか、といったくらいの差が出る。
一階述語論理を学習するとそれでばかり喋りたくなる人がいるように、喋り方や書き方がムラカミハルキ風になる人もいる。
これは、ムラカミハルキが、物語の構造のために、メタレベルとオブジェクトレベルを区別せず、様々な層で、多重再帰関数を多用することによるバグを起こすからである。そしてバグが日本語表現の意味を作り変える。
特にこの手法が日本語において頂点に達したのが「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」であると思う。まるで、LispとPlologをグルー言語で貼りあわせたようになっている。しかも、同時展開する両方のストーリーが、ぞれぞれ、記号処理+論理処理の混合体制で実行されている。

そういった感覚は、小説を読むと言語的な水準で再認識しやすいのだが、平常時でも脳内で感覚処理と言語処理との混合体制で行われている。こういった心のなぞなぞに応えながら、心のパズルを解いていくことが、サバイバルするにあたって必要となっている。
昨今は新しいなぞなぞやパズルが増えたので、いつまでも心を変化させ続けることができる者が情報を処理しやすい。そういった個々人の情報処理の仕方の再編が、分散した知識を再編し、ハードボイルドだがワンダーランドな仕事をつくりだすのだ。



メタな視点からものを述べるとするならば、21世紀はじめの若者が、「ウェブ進化論」で認識の論理を整え、「ウェブ時代をゆく」で感覚の整理をつけ、「生きるための水が湧くような思考」ができるようになるための、三冊の本なのであったのだと思う。
それは、私にとっては、今は、シリコンバレーとトーキョーメトロポリタンエリアの思い出を想起させるものである。(現在、岡山市の実家在住のため)
梅田望夫さんの水源(fountainhead)に再びしずく満ちるときまで、私は気長に待とうと思います。出版される村上春樹の新作長編でも読みながら。
Thank you for your activities and books!