キャリアについて考える0:何が耐えられないほど厭か

いきなりマイナス思考で申し訳ないのだが、キャリアについて考える際に、まずは衛生的要因から考えるのが有効であると思うので、「何が耐えられないほど厭か」について考える。工場の時代20世紀に生まれた僕らに、動機付け要因への道は遠い。

学習性無気力で思考停止してしまわないために

思考停止サラリーマンクエストⅢ

学習性無気力に陥らせられるのは、耐えられなく厭である。
世の中の多くの仕事は学習性無気力を増大させると思う。学校と工場と会社は同類である。無気力を学習させる抑圧と矯正のための施設だ。従順な身体をつくり社会に適応させる。
(耐えられなく厭なことを挙げてその衛生要因を除去するキャリア選択を行うために、過度に一般化して言っている。こういうのはいやだよねっていう)

無気力を学習するために小中高と12年間、規律訓練を受けていてわかったことがある。
服従と忍耐を学ぶことは大切だ」という言説を吐く人の言葉は信用しない方がいい。その人が嘘ではなく、そう信じているとしても、それは間違いだからだ。
一生、そうやって生きていけるように自分の効用関数を奴隷的に改造していくならばともかく、一般的な幸福を得ようと望むならば、それは愚かな方法だ。環境変化により多くの仕事が服従と忍耐を学習した無気力な人間には向かなくなっていく。
工場労働をしてみて、それを検証したことがある。
抗夫が家出して炭坑で働いて帰ってきたけど何も変わらないという、夏目漱石の「抗夫」を、村上春樹の「海辺のカフカ」に紹介されていたため読んで、山崎のパン工場@横浜第二工場へ一日だけ行った。
工場は、思考停止に陥るどころではなく、鬱々とした気分になって、逃げ出したくなる。(10時間を超えたあたりからがヤヴァイ)得るものより失うものの方が多い。それで帰ってきても何も変わらない。ただ、もう行かない、と思うだけだ。
その後、軽作業の派遣のバイトをして、確かめた。でも、得るものはない。どうしようもないバイトをしてもどうしようもないことを深く理解するだけであった。

服従と忍耐を重要視している会社には近寄りたくない。そして世の中そんな会社はいっぱいある。職種的にそうであったり、文化的にそうであったりする。そのような会社で過ごすくらいならばフリーランスで生活するであろう。(ちなみに、学習性無気力を生む耐えられない抑圧について心配しているのは、その耐えれるレベルが常人より圧倒的に低いためである)
実は、仕事というのはいろいろと選択肢があって、また会社というのもいろいろな会社があって、無気力を学習するための組織ではない組織もいろいろとあるのだと知ってはいたが、大きくなって実際にいろいろあるとわかって安堵したものだ。
近代社会の典型は、学校や工場や会社の抑圧的なシステムであり、だいたい世間は似たようなものだというイメージで、子どもの頃は、学者か芸術家わるくともフリーランサーかヒモにならねば死ぬしかないね、と思ったものだが、まあ、悪くない仕事や組織もあるみたいだ。次回からは動機付け要因について書いていこう。

※無気力を学習するために小中高と12年間の規律訓練
ちなみに、シグナリングのための学習は空しい。受験勉強のための受験勉強では非効率な学習しかできない。効率的に学習すれば、まあ無駄なコストをかけずに受験勉強をすることはできるが、副次的に有意義な学習がなされるだけで、目的はシグナリングするための学歴を最小のコストで手に入れることなのだから空しい。また、それを補助する教師という職業はどうしようもないものだ。本人たちは有意義な教育をなそうとしているのだろうが、いかんせん横柄だし、力不足な人が多いと思う。投資としての学習や好奇心と快楽のための学習ならば、まだ有意義や有価値であるが、学校という施設はそのための施設ではなく、シグナリングのための学習を行う施設でさえなく(それは塾だ)、子どもの身体矯正施設なんだよなあ。

※参考文献
無気力製造工場アマゾンの書評はひどいが、この本の「僕が働いていた工場の話―「死」と「30代」について」というエッセイが秀逸。鶴見済の書籍は全般的におもしろいと思う。