【哲学する会計1】:<1から無限へのカウンティング>ボロフスキー

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グーグルのストリートビューの機能を使って見れない場所を探してたら、オペラシティの中庭を思いついた。シンギングマン by ボロフスキーがいるところである。リンク先から四方向から撮影した大きな画像を楽しめる。しかし、360度回転させられないので、周りにある英国風パブやアンナミラーズの店舗は見えない。

ジョナサン=ボロフスキーのこの作品には、縮小して三人組にした「3人のおしゃべりする人」があるのだが、これには、番号が振られている。

これは実は、<1から無限へのカウンティング>ボロフスキーというアートの一環なのである。それについてボロフスキーは以下のように述べている。

■作品に番号をふり続けるカウンティングの意味について…

「カウンティングは、自分が必要としていることをあらわすためのメタファーなんです。カウンティングというのは、自分のトータル・ビーイングのあらわれであるけれども、それが全部ではありません。一方には自分はマジックとか夢とか直感とかの部分ももっているし、そのもう一方の自分のオーダーに対するニーズが、カウンティングという形であらわれているわけです」

ものの数え方から考え直そうと最近、思い始めた。これからしばらくの間、そういったエントリーを断続的にウェブに発表していく。
ウェブに縷々ある語のさざめきはまるで3人のおしゃべりする人のようだ。それは、記号化されたハードボイルドワンダーランドでのアカウンティングなのだ。
おしゃべりする人は、吉田戦車の漫画の登場人物の不条理性を明らかに体現している。真ん中の人物の背中の傾きは、まるで、「ただそこにおる感じがそこらの中学生によう似とる」かわうそ君の背中の傾きのようだ。
おしゃべりする人は、何ら厚みがない人物としての高田純次のまねをしてしゃべっていてもいい。20世紀後半の思潮をつくりだした大科学者ジョン=フォン=ノイマンだって、行動や発言やキャラクターは、高田純次の脳に悪魔の頭脳・火星人の知性をくっつけたくらいに過ぎず、純次と同じくいい意味ですばらしく厚みがなかった。
おしゃべりする人は、イッセイミヤケのプリーツプリーズを着て、左手に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド(英訳書ハードカバー)」を持って、右手に「ローディッセイ(100ml)」を振り上げて、鏡の前でニューヨークの自由の女神と同じポーズをとってみていてもいい。
直島のアートサイトで3人のおしゃべりする人を見た場合、そこらへんにいる子どもは例外なく笑っている。多くの人は二羽のずすめのように好きなことを云っており、三人のおしゃべりする人はさながら観覧者の鏡像のように見える。


<1から無限へのカウンティング>は、必要なことを数えていく際の方法の一種だ。その番号体系が私的なものならば、番号をつけるのは名前をつけるのと同じとなる。
この【哲学する会計】は、88番まで続く。私的な番号である。何かについた番号の多くはこうしてウェブにも発表するつもりである。なぜ、1〜88かというと、無限∞を右回転して8、1〜8までだと少ないので8を増やして88まで。∞ってメガネに見えるよね。無限の概念についてはまたいずれ書くよ。