2 ラカンの鏡像段階理論

 2-1  ラカン鏡像段階理論の<存在する私>概念のパラドックス的把握



 鏡像段階とは、幼児が相互主観的な関係の中で自我を形成する生後6ヶ月から18ヶ月頃までを指す。(図6)

 鏡像段階以前では、子どもは自分の身体をまとまった全体としてではなく、寸断された身体として体験する。これは、想像界で生きている状態である。現存在そのものであり、脳はまだ言語化されていない。

 生後6ヶ月ぐらいの子どもは、最初のうちは、鏡に映った自己の身体を手でつかもうとする。これは、鏡像界の状態である。世界と自己は分化を始めており、鏡像という世界が自己を見つめているという感覚を持っている。鏡像は他者であり、最初の鏡像は母親である。母親という世界と分化し、さらに世界との分化を始めている。縦軸の<存在する私>は横軸の<水野創太>を含む。(エディプス第一期)

 やがて子どもは鏡像が現実の他者ではないことに気が付き、自己像との同一化により、鏡を前にして大喜びする。これで現実界が成立する。実在という構成的虚構を自分のこととして引き受け、実在する自己の身体とこの世界を引き受ける。横軸の<水野創太>は縦軸の<存在する私>を含む。(エディプス第二期)

 この自己を再認する作業は、生後18ヶ月ぐらいまで続く。これは脳の言語化の進行であり、人間を人間にするものとしての去勢である。子どもは、世界をあるがままに受け容れることをやめ、言語による構造化に基づいて把握するようになる。これが終了すると、象徴界が成立する。縦軸の<存在する私>は横軸の<水野創太>を含む。(エディプス第三期)

 しかし、子どもは眠る度に象徴界から想像界に戻る。対自的な自己という虚構を維持するためには、想像界で眠り、即自的な自己に戻ることが必要なのだ。横軸の<水野創太>は縦軸の<存在する私>を含む。



 ここから「<存在する私>は<存在する私>だ」ということを証明するための二周目が始まる。(図7)第一章の<存在する私>概念のパラドックスより「要素<存在する私>は、概念<存在する私>に含まれるか含まれない」が導かれる。図7では、要素と概念が入れ替わりつつ無限に回転を続ける。<存在する私>は<存在する私>だという即自的自己同一性は既に失われている。





 2-2  十牛図との相似



 鏡像段階理論を十牛図との相似で述べてみよう。十牛図とは、禅において自己の探究を段階に分けて述べたものである。牛が自己のメタファーである。禅は鏡像段階の二周目であり、<存在する私>は<存在する私>だという即自的自己同一性を取り戻す実践的方法である。



 尋牛。牛を探しに行く。生まれて失った、世界と一体化していた自己を探し始める。

 見跡。牛の足跡を見付ける。鏡の向こう、他者の中に自己の跡を見付ける。鏡像界。

 見牛。牛を見付ける。自己を発見する。

 得牛。牛を捕らえる。自己を獲得する。現実界の成立。

 牧牛。牛を飼い慣らす。自己を去勢する。

 騎牛帰家。牛に乗って家に帰る。象徴界の成立。

 忘牛存人。牛を牛小屋にいれて昼寝する。眠って平穏を得る。

 人牛倶忘。人も牛もいない空無。自己の世界との一体化。想像界

 返本還元。自然がある。想像界がそのまま現実界となる。

 入廛垂手。街に入り、子どもに手を差し伸べる。全部忘れて脳天気。象徴界で生活。



 2-3  「私は私ではない」という真理を認識することの価値



 言語化される自己は、存在する自己ではない。そして自己とは語れなければならない。他者とコミュニケーション不可能な存在する自己は存在を認められない。ただ存在するだけだ。もちろんこのように言葉で定式化してしまえばこれは誰の自己にも当てはまる。だが、存在するのは、これ、だけだ。嬉しいのも悲しいのも痛いのも常にこの私だけだ。この自他の圧倒的な非対称性。しかし、この非対称性自体は誰もが持つのだ。ゆえにこの自・他の非対称性は、他・自の非対称性として理解されるか、水野創太・他の非対称性として理解されるしかない。「(この存在する)私は(他の一般的な)私ではない」という真理を認識することの価値は、自他の圧倒的な非対称性の認識とそれは理解されえないという事実の認識にある。これらを認識することによって、他自の非対称性に基づいた言葉を喋ることができるようになる。これは人ときちんと話をするために欠かせない能力だ。これは、他人を尊重する能力の一種だが、一般的な他人を尊重する能力「共感」や「同情」より汎用性がある。他者に何かを望むならばコミュニケーションを行う必要がある。共感能力が優れていればたいてい間に合うので、対立が問題にならない融和的空間で生活を続ければ、共感能力が優れている人はコミュニケーション能力が優れているとされるだろうし、実際そこでは優れているといってよい。しかし、議論や経済ゲームなど対立が問題となる場面では、共感できる他者としかお喋りできないならば、コミュニケーション能力が優れているとはいえないだろう。他者のわがままさを自己の観点からではなく一般的な観点から非難することは、対立を解決しない暴力的で野蛮な手段だ。他者の協調性のなさを非難することは、協調的な振る舞いではない。相手から見ればただの敵対的攻撃である。協調できないなら敵対するしかない。共感や同情だけできて敵対できないならば、他者ときちんと話をすることはできない。存在同士の語り得ない非対称性(語れば一般的事実かただのわがままになってしまう)を前提に語らなければ、伝わらない愚劣な言葉を多く語ることになる。「私は私ではない」という真理を認識すれば、他者とコミュニケーション可能な自己を他者と同列のものとして、また、他者とコミュニケーション不可能な存在する自己を比類ないものとして扱うことができる。望むならば、他者の存在する自己を、他者とコミュニケーション可能な自己ではなく、喋る私の他者とコミュニケーション可能な自己なんかとは比べられない比類ないものとして扱うこともできる。そうすれば、相手に有利になることを語ることができ、言葉も伝わるだろう。もちろん、対立している場合、それは自分にとって不利になることが多いが。語るならば、きちんと相手のことを考えて語らなければ伝わらないことが多いし、きちんと敵対するなら、何も語らない方がよい。