1 ゲーデルの不完全性定理

 1-1  結論「言語は不完全であり、いつ矛盾するかわからない」



 言語運用のきちんとした基礎となるのは、言語の不完全性の明晰な論証である。それはゲーデル不完全性定理を言語に応用したものだ。ゲーデル不完全性定理は、数学的実在を記号の体系によって記述することと、再帰関数的に自己言及を行うことによって、証明される。同じように、言語の不完全性定理は、実在を言語によって記述することと、自己言及を行うことによって、証明される。

 数学の不完全性定理とは、以下のようなものである。

[数学は公理運用系を前提として運用される。公理運用系の中でのみ、証明が出来たり出来なかったりする。しかし、充分に強力な公理運用系ならば、その公理運用系が「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方であるか」が証明できる]

 では、言語の不完全性定理とはどのようなものであるか。

[言語は言語運用系を前提として運用される。言語運用系を持つ者のみが、言葉を喋ったり喋らなかったりできる。しかし、きちんとした言語運用系ならば、その言語運用系が「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方であるか」が論証できる]



 不完全性定理の証明がどのようにして行われるか説明する前に、数学と言語における相似について規定する。数学と言語において対応する言葉の一覧とその定義は以下のとおりである。

「数学的実在=実在」(異なる人の世界同士で共通するとみなされる超越論的な一致。これがあるために人は数学や言語を習得できる)

「公理運用系=言語運用系」(存在するとみなされる或る一人の人が扱う、他の人に伝えることを目的としてつくられた共用システム。人それぞれ、どのような公理=価値観と推論規則=論理法則を持っているか、ある程度異なる。

「公理系=価値論理系」(あらかじめ、公理=価値観と推論規則=論理法則を決めておいた、公理運用系=言語運用系。形式化された記号操作が完全に一致したとみなせる運用が可能である。だが、心に浮かぶイメージとしての意味との同型対応=解釈が一致したわけではない)

「数学=言語」(数学とは、数学的実在を共有する者達が、公理運用系を通して数学的実在を名付けたり伝えたり操ったりするための手段である。言語とは、実在を共有する者達が、言語運用系を通して実在を名付けたり伝えたり操ったりするための手段である)



 1-2  集合論におけるラッセルのパラドックスと<存在する私>概念の概念論的パラドックス



 まず、不完全性定理の証明の前に、集合論におけるラッセルのパラドックスと<存在する私>概念の概念論的パラドックスを述べる。



 ラッセルの集合論パラドックスとは「自分自身を要素として持たない集合の集合=ラッセル集合は、ラッセル集合に含まれるか含まれない」というものである。ラッセル集合が、ラッセル集合に含まれるならば自分自身を要素として持たないし、ラッセル集合に含まれないならば自分自身を要素として持つ。つまり、ラッセル集合は、ラッセル集合の要素であり要素でないので、矛盾する。(図1は、横軸に集合の要素を、縦軸に集合を並べたものである。横軸には集合の要素となりうる数や集合が並んでいる。縦軸には、集合が並んでいる。集合は横軸に並んだ要素を持つならば1の値をとり、持たないならば0の値をとることで01の列として表される。では、縦軸のラッセル集合が横軸のラッセル集合を要素として持つ部分は0であろうか1であろうか?)



 <存在する私>概念の概念論的パラドックスとは「要素<存在する私>は、概念<存在する私>に含まれるか含まれない」というものである。

 <存在する私>は比類なさを特徴とする。<存在する私>は現実にはこの私だけである。<存在する私>概念とは、今ここにいるこのかけがえのない唯一の私という概念であり、一般に使われる自分自身を指す「一人称としての私」概念とも、自己自身の身体を指す私概念とも、水野創太という固有の人間を指す私概念とも異なる。

 図2の横軸にはこれらの概念やその他「人」「椅子」「猫」「ボブ=スミス」「雲」「7」「概念」「空集合」といった要素が並んでいる。縦軸には、横軸を要素とする概念が並んでいる。(概念の定義は、要素をとりうる集合とする。概念はその01列によって何を要素として含むか決定し、他の概念と区別される。例えば、「何も要素としないという概念=空集合」は000・・・という01列で表され、「概念」は111・・・という01列で表される)(図2)

 では、縦軸の<存在する私>概念は、横軸のどのような要素を含むのであろうか。

 このかけがえのない存在<水野創太>を含むのは確実である。

 「私はロボットです」というロボットは、自分自身を指す「一人称としての私」概念や自己自身の身体を指す私概念の要素とはなるが<存在する私>概念の要素とはならない。(「私はロボットです」という文の中の「私」は前の二つの概念として使われているとは解せるが、今のところ後者であるとは解せない)

 「水野創太」や「ボブ=スミス」も<存在する私>概念の要素とはならない。固有名で表される要素は概念であり、存在ではない。(だから要素「水野創太」は概念「水野創太」には含まれない)存在する要素を便宜的に<水野創太>と表す。水野創太がスミス家の養子となった場合「水野創太」=「<創太=スミス>の旧名」となり、「創太=スミス」とは違う概念となるが、存在である要素<水野創太>は要素<創太=スミス>と同じである。よって存在である要素横軸の<水野創太>は概念である縦軸の<水野創太>概念に含まれる。もちろん横軸の要素<創太=スミス>も縦軸の<水野創太>概念に含まれる。縦軸の<水野創太>概念は固有名概念であり存在を名指すことができる。ゆえに概念<水野創太>は要素<存在する私>を含む。しかし概念<創太=スミス>は要素<存在する私>を含まない。存在は現実にのみ存在する。要素<創太=スミス>は現実にはいない。可能世界の住人である。もちろん概念<ボブ=スミス>も要素<存在する私>を含まない。要素<存在する私>は現実には一人しかいない。要素<ボブ=スミスの存在する私>は現実にはいない。いるのは要素<ボブ=スミス>だけである。要素<ボブ=スミスの存在する私>は想像の中の自己と同じく可能世界の住人である。しかし、他者もまた「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」であるだろうから要素<ボブ=スミス>や要素<田中一郎>も概念<存在する私>に含まれるだろう。<存在する私>は要素としては単一であるが概念としては多数である特殊な概念なのである。

 ならば、要素<存在する私>は、概念<存在する私>に含まれるだろうか。含まれるとするならば、要素<存在する私>は要素<ボブ=スミス>や要素<田中一郎>と同じく「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」であることになる。だが、要素<存在する私>は要素<ボブ=スミス>や要素<田中一郎>とは違い本当にかけがえのないものなのだ。要素<ボブ=スミス>や要素<田中一郎>が死んでも代わりはいるが、要素<存在する私>が死んだら代わりはいない。<存在する私>は比類なさを特徴とするのだ。もちろん要素<ボブ=スミス>にとっては要素<ボブ=スミス>が「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」であるので要素<ボブ=スミス>は縦軸の概念<存在する私>に含まれうる。同じように要素<水野創太>も縦軸の概念<存在する私>に含まれうる。概念<存在する私>は変数であり、この文章を書いてるのが<水野創太>であるので現実には<水野創太>をただ一つの要素として含む。でもこの要素<存在する私>は明らかにそれらの概念とは違う。もちろん<ボブ=スミス>にとっての「この要素<存在する私>」性も、<固有名>で表される存在一般の「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」性=<水野創太>の<水野創太>性とは明らかに違う。だが、現に<水野創太>であるこの<存在する私>だけは特別なのだ。(最後の一文は不当な言語運用を行っているので、この文章を有意義に理解することは不可能であり、あなたは<水野創太>の中に自分の固有名をいれ、この要素<存在する私>性を有意義に理解しなければならない。むろん、それは、現に<水野創太>であるこの要素<存在する私> にとっては無意義だが。[詳しくは第三章を参照])要素<存在する私>は概念<存在する私>の要素とはならない。変数である概念<存在する私>が(現実には要素として<水野創太>のみを含むとしても)「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」であるなんてことはないからだ。ハイデガーの言葉を借りるならば「存在するものは存在するけど、存在は存在しない」となる。

 では、含まれないとすると、要素<存在する私>は「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」でないということになる。しかし、それは困る。<存在する私>は現にここに存在するし、そのことを人に伝え「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」として他者が扱ってくれるようにするためには、要素<存在する私>は「今ここにいるこのかけがえのない唯一の私」という概念の要素でなければならない。つまり、要素<存在する私>は概念<存在する私>の要素であり要素でないので矛盾する。自分自身を要素に含まない概念の概念が、概念<存在する私>である。すべての「私は私ではない」概念の概念が、概念<存在する私>である。(図3)



 これらのパラドックスは記号間に階級を設定することで解決される。数学の場合、集合の要素と集合とに階級差をもうけることで、集合は自分自身を要素として持つことが出来なくなり、ラッセルのパラドックスは解決される。言語の場合も同じく、概念の要素と概念とに階級差をもうけることで、概念は自分自身を要素として持つことが出来なくなり、<存在する私>概念のパラドックスは解決される。もともと自分自身を要素として含まない「一人称としての私」概念と同じように(「(一人称の)私は私だ」の二番目の「私」は内容を伴っていなければならない。でなければ、ただの同語反復である。同語反復なのに有意義なのは、「1は1だ」や「赤色は赤色だ」のように、要素概念が概念に含まれるものに限る。世界を記述しない文法的な同語反復は無意義だ。「AはAだ」という同一律は語ることが出来ない)、<存在する私>概念も、<存在する私>概念と「この<存在する私>」概念とに階級差(概念と要素の間の差)をもうけることによって、自分自身を要素として含めなくなる。



 1-3  数学の不完全性定理の簡易な証明と言語の不完全性定理の簡易な証明



 数学の不完全性定理の簡易な証明と言語の不完全性定理の簡易な証明を行う。



 数学の不完全性定理の証明は、ラッセルの集合論パラドックスに基づいて行われる。(図4)

 まず横軸に様々な要素を並べる。とりあえずaとbを並べてみる。次に縦軸に様々な概念を並べる。とりあえずaとbを並べてみる。さらに、縦軸に概念g「xはxだは証明できない」を置く。このxの部分は変数であり、aやbを代入できる。aとbを代入して真ならば1偽ならば0を置く。これはaやbが概念g「xはxだは証明できない」の要素となるかならないかを表す。「aがaだ」が証明可能ならば偽0、証明不可能ならば真1となる。

 さて、要素g「xはxだは証明できない」が概念「xはxだは証明できない」の要素ならば、「「xはxだは証明できない」は「xはxだは証明できない」だは証明できない」つまり「gはgだは証明できない」は真となる。要素でないならば偽だから「gはgだは証明できる」となる、すると、「「xはxだは証明できない」は「xはxだは証明できない」だは証明できる」となる。これは「xはxだは証明できない」は証明できる」と同義である。これは矛盾だ。ここから「公理運用系が証明できない文を含む=不完全であるか、矛盾を含むか」が帰結する。

 さらにここで無矛盾性が証明されてしまうと必然的に「gはgだは証明できない」が証明される。論理値は真偽の二択であり、偽であり得ないことが証明されたならば、真であることが証明される(背理法)。「「gはgだは証明できない」が証明される」のは矛盾だ。無矛盾性を証明しようとすると矛盾してしまう。

 よって、公理運用系が「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからない(無矛盾であることが証明できない)ものであるか・その両方であるか」が証明される。この証明を自然数論に翻訳したものがゲーデル不完全性定理である。証明に使う言葉を記号にしたものが公理運用系だが、その公理運用系の記号を数字化すると自己言及することが可能となりゲーデル不完全性定理が導かれる。

[数学は公理運用系を前提として運用される。公理運用系の中でのみ、証明が出来たり出来なかったりする。しかし、充分に強力な公理運用系ならば、その公理運用系が「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方であるか」が証明できる]



 言語の不完全性定理の証明は、<存在する私>概念の概念論的パラドックスに基づいて行われる。(図5)

 まず横軸に様々な要素を並べる。とりあえず<ボブ=スミス>と<水野創太>を並べてみる。次に縦軸に様々な概念を並べる。とりあえず<ボブ=スミス>と<水野創太>を並べてみる。さらに、縦軸に概念g「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」を置く。この<存在する私>の部分は変数であり、<ボブ=スミス>や<水野創太>を代入できる。aとbを代入して真ならば1偽ならば0を置く。これは<ボブ=スミス>や<水野創太>が概念g「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」の要素となるかならないかを表す。「<ボブ=スミス>は<ボブ=スミス>だ」が証明可能ならば偽0、証明不可能ならば真1となる。「<存在する私>は<存在する私>だ」は、<存在する私>概念の集合論パラドックスより証明不可能であり、真1である。「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」は、<存在する私>の比類なさを表すものであり、<存在する私>の本質である。よってこれも変数<存在する私>に代入できる。

 さて、要素g「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」が概念「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」の要素ならば、「「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」は「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」だは証明できない」つまり「gはgだは証明できない」は真となる。要素でないならば偽だから「gはgだは証明できる」となる、すると、「「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」は「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」だは証明できる」となる。これは「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」は証明できる」と同義である。これは矛盾だ。ここから「公理運用系が証明できない文を含む=不完全であるか、矛盾を含むか」が帰結する。

 さらにここで無矛盾性が証明されてしまうと必然的に「gはgだは証明できない」が証明される。論理値は真偽の二択であり、偽であり得ないことが証明されたならば、真であることが証明される(背理法)。「「gはgだは証明できない」が証明される」のは矛盾だ。無矛盾性を証明しようとすると矛盾してしまう。

 よって、言語運用系が「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからない(無矛盾であることが証明できない)ものであるか・その両方であるか」が証明される。

[言語は言語運用系を前提として運用される。言語運用系を持つ者のみが、言葉を喋ったり喋らなかったりできる。しかし、きちんとした言語運用系ならば、その言語運用系が「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方であるか」が論証できる]



 1-4  結論から導かれる帰結「現実の認識か超越論的なものの措定」



 すべてきちんとした形式的な体系は、矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方である。数学はもちろん、言語もそうである。この現実を認識しないならば、超越論的なものを措定するしかない。数学ならば超自然数が、言語ならば<存在する私>が措定される。超自然数を認めると、公理運用系が完全でω-矛盾を含むことになる。<存在する私>を認めると、言語運用系が完全でω-矛盾を含むことになる。ω-矛盾とは、数学では、全体としてすべての自然数がある性質を持っていることを主張している定理の積み重ねとその性質を持っているのはすべての自然数ではないといっている一つの定理との対立に基づく矛盾である。ω-矛盾とは、言語では、全体としてすべての人がある性質を持っていることを主張している定理の積み重ねとその性質を持っているのはすべての人ではないといっている一つの定理との対立に基づく矛盾である。

 すべての人が「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」といえる。<存在する私>は言語上で表現されるとすぐに他者にも共通する性質として読み替えられてしまうため、<存在する私>は<存在する私>だは証明できない。これはあまりにも正しいことのように見える。現にここまでの議論もこの倒錯なしには理解不可能である。しかし公理として「<存在する私>は<存在する私>だは証明できる」を付け加えることは可能だ。価値観の一つに<存在する私>を置いても、見かけ上は大した変化はない。言語運用系はだいたいのところ似通ったものでありその価値観が一つ付け加わろうとも他の価値観はだいたい一緒なのだから話は通じるのである。

 <存在する私>が超越論的であるとは、時間や空間というカテゴリーが超越論的なものであるのと同じ意味で超越論的なのである。世界を把握構成する根本的な価値観はだいたい誰にでも共通のものであるが、<存在する私>という価値観を言語運用系の公理として付け加えるかどうかはその人の趣味による。

 「<存在する私>は<存在する私>だは証明できない」を公理として付け加えた言語運用系は、主体同士のコミュニケーションの根本的な不可能性を含んだ不完全でω-無矛盾な言語運用系を築くことができる。「<存在する私>は<存在する私>だは証明できる」を公理として付け加えた言語運用系は、そもそも主体同士のコミュニケーションなど考慮に入れない完全でω-矛盾な言語運用系を築くことができる。

 すべてきちんとした形式的な体系は、矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方である。しかし、人間という言語運用系はそのような現実に耐えられなくなるときがある。完全な認識が欲しいのだ。超越論的なものを措定してしまうのが哲学である。言語運用系の価値観さえも変えられてしまう。宗教が超越的なものを措定して言語運用系の価値観を変えてしまうように。現実には我々は言語の不完全性に起因した水掛遊びをするしかない。自己言及を行えば無限背進が始まる。論理では存在を捉えられない。存在は、論理の無限背進のうちに示されるか、盲目な信仰のうちに現れる。

哲学は不完全でω-無矛盾な言語運用系を築くことが多く、宗教は完全でω-矛盾な言語運用系を築くことが多い。存在の問いを解消する方法は基本的にはこの二つだ。しかし、存在の問いを解消する必要はないのだ。言語運用系は死ぬまで、「矛盾を含むか・不完全でいつ矛盾するかわからないものであるか・その両方である」。