0  序文 思考と存在と実在

 思いうることは存在しうる。

 まず、存在が定義されている。ここにあるこの世界、それが存在である。この成立している現実に対して、成立していない数多の可能世界がある。可能世界とは、例えば、「今ここではなく他の場所に私がいる世界」「私が猫である世界」「あなたが猫である世界」その他、想像しうるすべての世界である。それは、日常言語で表現可能・表現不可能に関わらず思いうる事態すべてを含む。「三角形の辺が常に四つある世界」などは日常言語できちんと表現できていないが可能である。夢の中でそのような世界に行くことはありうる。他の人がそうであるように振るまい、自分も三角形を見つつもそうであることが当然と信じている夢はあり得る。それほど意識的でない夢の場合、実在する可能性がない世界を存在させてしまうことはある。意識的な場合でも、日常言語できちんと表現できないわけのわからないことを信じ込んで幻影や白昼夢を見ることは可能である。また、脳を機械につないで外界からの刺激を思考によってコントロールできるようにすれば、思うことすべてを存在させることが出来る。(自己言及的なループができるだろう。しかし、これは現在の我々の状態とさほど変わらない。我々は多かれ少なかれ外界からの刺激をコントロールしている。これは程度の問題である)

 存在しうることは実在しうる。

 実在を定義しよう。実在とは、人々の間の言語活動の基盤となる共通の世界である。物理的実在は感覚諸器官を通して存在し、それの名前を使えるようになることによって実在する。数学的実在に代表される概念的実在も同様である。実在は言語的に生成する。他の人々と共有できない実在は存在でしかない。物理的に見れば、実在から存在者たちが生成される。独立したただあるものとして実在は定義されているが、それは物理的な世界観に立った場合に限る。言語による理解と誤解の連鎖が実在を形づくる。今自分が思い描く実在が実在する。実在は定義的に思い描き切れぬ可能無限であるが、現実には実無限としてその都度捉えられる。

 ならば、人は何をどのようにどこまで思うことができるのか。そのことが明瞭になれば、世界の限界を定めることができる。人は狂うにしても言語的に狂うしかない。思うにしてもその素材は感じられるものか考えられるものでしかない。人は思いうることを思う。思考にも言語にも限界はない。なぜなら思考や言語は可能無限的な体系であって実無限的な体系ではないからだ。すべて考えられうることは考えられ得る。そして人は考えられ得ぬことについてはただ考えられない。非日常的な言語を使用した無意味な思考もまたどこまでも考えられうる。私の死があり得ないように、思考の限界もあり得ない。死の向こうに何もないように、思考の向こうにも何もない。しかし、もちろん、死の向こうや思考の限界の向こうについてもどこまでも考えられるし語れる。これらを語れ得ぬ超越論的なものにしてしまうことはできない。死の彼岸や思考の彼岸は、実在と他者である。死の彼岸や思考の彼岸は、実在するが、存在しない。存在しないものについて思い語ることは普通の出来事である。死や思考の限界の向こうに何もないという事実は、眠ることによって意識が断絶するという事実からつくられる誤解である。思いうることは存在しうるのだから、死の彼岸や思考の彼岸を存在させることはできる。思考が見る夢。

 だが、できうる多くのことをなす必要はない。何も思わなくていいし、何も存在しなくていい。思われないものは実在しない。



 以下に書かれる言葉は、私が言葉の基礎にあると思ったものを描写している。間違った思想でも、大胆にそして明晰に表現されているならば、それだけで充分な収穫といえるそうだ。