キャリアについて考える1:価値とは何か

これから、しばし、キャリアについて考える。
その話の前提として、価値とは何かについて語る必要がある。
基礎付けると長くなるので、わかりやすい話をいくつか並べることでそれに変えたい。厳密さを求めるとありえない長さになるので、粗雑な描写であることを了解の上で読んでください。
その後、章を改めて、自己の価値観の形成について歴史的に記述したい。
余裕があれば、価値観を基礎付ける。昔書いた文章をアップするかもしれない。価値観の基礎付けと成立は青年期の課題の解消である。だから、価値の基礎付けについては、話すと長くなるんだよね。誰でもそうだとは思うけれど。メロウな文章の一つでも書いてみようかな。


価値とは、何らかの目的を達成することに役立つものへの評価である。目的合理的な道具の使いやすさとして捉えることが正しい。
人の人生の価値は、人生の目的による。一般的な人生の目的は個人の一生の幸福の最大化なので、それに与するような行動が価値がある。
自己の範囲を現在から未来の生きている期間までと指定し、その間の幸福を最大化するのに役立つ行動に価値がある。未来の価値はとりあえず現在価値に換算する。

ここでは個人的な価値について述べている。社会的な価値については、キャリアの話なので述べない。社会設計者としてのメタな立場ではなく、個人の立場から価値について考えれば、社会的な価値に対する詳述は不要であり、当座必要な社会的価値は個人的な価値に還元できる。たとえば、社会的な効用を増大させる功利主義的な行動は個人的な効用→幸福も増大させるため、個人の立場から見ても価値がある、等。

個人的な価値を、価値合理的な価値に求めることは正しくない。あくまで目的合理的な観点から価値について考える方が、正しい。(ここでの正しさは、説明能力の高さ→真であることに基づくが、結局は超越論的なものである)
価値合理的な価値は超越的であり、超越的な価値に僕は動機付けられない。

今回は、功利主義的な世界観・経済学的な人間像に基づいてキャリアを考えるため、功利主義的な人間像の問題については述べない。また、功利主義的でない価値観は、結局は超越的であると思う。
以下は、その超越性の批判を行い、功利主義的な価値算定方法に基づいてキャリアについて考える前段階とする。


口にできないこと ---What You Can't Say---

口にできないことは重要だという話。
ここで言われていることは、ニーチェフーコーを読むとよく理解できる。
道徳に対する敵対は思考の自由を確保するために重要である。道徳は超越的であり、批判が許されないが、どんなことだって考えることは自由だ。
科学的思考は、道徳的に問題があっても行うようにしておかないと愚者になってしまう。社会が変化したときに不利益を蒙ることになるだろう。たとえば、内戦時に殺人をできない過度に道徳的な人になるとか。(正当防衛や緊急避難や戦争による殺人は法律でも認められているため、殺人云々は口にできないことではないと思うが、まあ、穏当ではない話だね。これは思考実験ですからとエクスキューズを述べておく)

口にできないけどまあできることの例を挙げると、エスノクレンジング(民族浄化)などいい加減に応用されたその結果はひどい話だが(とエクスキューズをつける)、優生学的な思考は科学者ならば考えるであろう。一部分は現在でも正しく(競走馬の配合)、一部分は不定で(堕胎による命の選別)、一部分は禁止されている(差別的な政策)。遺伝子操作がデリケートなのは、これに関する話だからだね。

あとは、相互原理の否定も、口にできないことである。「人にやられたらいやなことを人にしてはいけない」というのが相互原理で、功利主義的観点から言えば、これは状況によっては否定すべきだ。人がいやがっても自分は楽しいのだから、効用は増大する。社会的装置がうまくできているため、相互原理を否定するような行動には普通は合理性がないようになっている。また、口にする動機もこのようなメタモラルな文章以外では、通常、ない。他の人は相互原理を道徳的に信じていてくれた方が有利なためだ。
これつきつめて考えると相互原理を否定している人は極悪人みたいだけど、場合によっては誰でも否定して行動することはあるのよね。「あの人が楽しみにしていたプリンを盗み食いしてしまおう」みたいな。

社会的な規範を変化させていく運動はまた重要である。
麻薬合法化に対して投資家のジョージ=ソロスが私財をつぎ込んでロビイングキャンペーンをやっていた話とかを聞くと、心温まる。産業社会になじまないために否定されている麻薬だが、きちんと国が管理して、酒やタバコのように販売するか、今よりも規制を緩めたかたちで向精神薬のように医者に処方させるべきであろう。

と、口にできないことっぽいことを書いてみて、もっと過激なことを書きたいんだけど、あんまり書くと不利益を受けるため、これくらいにしておく。



やらなければをどう無くすか!

仮言名法で思考し、定言名法を受け入れないことについて書いてある。
定言名法とは、超越的に「〜しなければならない」という言明のことである。これは、動機付けにふさわしくない。だから、「〜するために〜しよう」という、目的合理的な思考法に基づいた仮言名法を推奨している。「幸福な人生を送るために〜しよう」というのが、人生に対する一般的な仮言名法であろう。


人生見直しはいつでもできる!

 何歳になっても、自分を発見して自分の人生を自分の為、真の自分として生きる醍醐味は体験できるのなら、体験すべきだと私は思う。今までやってきた事はあくまでそこに辿り着く為のステップであると見れば、それでいいのではと私は心底思う。

 死ぬ時に後悔して死なないと断言できるのなら、別にいいと思うが、心の奥底で真の自分が出てきたがっているのに、無視して死んで場合に、後悔しないという事はありえないだろう。

 人生一度だとしたら、極限までエンジョイすべきでしょ!

価値について考えると、僕はいつも自分がリアリスティックであることを痛感する。
「死ぬ前に自分の人生を後悔する」という想定が実感できない。そのような想定は、未来の自分を現在の自分の観点から捉えている。未来の自分にとっては、別にすぐに死ぬんだからそれまでの人生なんて関係ないじゃないか。
死ぬ前ならば、それまでの人生はすでに取り返せないわけで、人生を物語化して振り返って後悔するというのは、サンクコストの規範に反する。
また、真の自分という想定にも実感がない。自己は現在に存在するのみである。
「幸福な人生を送る」というのは、一般的な目的合理性を措定するにあたり必須の目的だが、幸福を目指さない目的合理性というのも考えられる。これは、功利主義の限界の問題で、功利主義はすべての目的合理性を効用の最大化に還元する思考法なので、致し方ない。

蛇足で価値についての論点をいくつか書いておくと、
・幸福を目指さない目的合理性というのは理解可能か。理解すれば、それはある種の幸福を目指しているように見えるのではないか。幸福を目指していないとすると価値合理性との違いがなくなるのではないか。
・自己の範囲(時間的にどこまでが自己か)
・リアリストか、ニヒリストか。死後の算定についての話。
まあ、ここら辺は倫理学の話なので、またおいおい。今回は経済学の哲学的基礎の話なので。しかし、経済学の哲学的基礎の概要を書いておかないと、キャリアについて書けないなんて、不便だ。。。いや、僕の思考がね。ぐだぐだしてるのよ。基礎付けないと行動できない。以前は、基礎付けないと喋れなかったが、言語哲学→社会科学への転向があったため、行動的な文章を書けるようになった。なったか?