異文化組織論のレポートの転用。異文化と接してAh!っと感動した体験を書いた。感動した(小泉純一郎風)

実家で犬を飼っている。ポインター系の雑種の犬のメスで、名前は「ホロン」という。父が、アーサー=ケストラーの「ホロン革命」を読んで感化されていたためにつけた名前だ。(Ah!という感動ということで、アーサー=ケストラーつながりで、ホロンのことが思い浮かぶことも、犬との文化について書いていることに影響している)1989年生まれで、僕との年齢差は五歳。家を新築した際に、犬を飼うことになって、知り合いからもらってきた。
家の中で一番若い僕と犬のホロンは、家内の地位をめぐって争う仲だった。犬は群れ(この場合は家)の中での序列を理解し、上位の人に従うという文化を持っている。そのため、幼い頃は、犬とけんかをして、勝つことが求められ、実際に争っていた。
基本的に、犬は愛玩動物で、ペットとして飼っている人が多く、甘やかすため、犬が家族内での地位を勘違いし、増長するため、さまざまな問題を引き起こすことが、近年は特に問題になっている。これは、異文化に対する理解が足りないためだ。
祖母の家で飼われている「善」という犬は、おそらく、祖母と伯母との三人の関係の中で、最も上位に位置すると思っている。そのため、態度に横暴なところがあり、よく吠えられていた。
さて、犬と接していてAh!っと感動したことなのだが、犬は非常にシンプルな上位下位・強い弱いという行動原則に従って動いていることに感動した。
ホロンが、近所の猫の一匹に負けて以来、その猫を庭から追い出せなくなった。その猫でなければ追い出せるのに、その猫とは戦っても勝てないので、追い出せない。また、友達の家の小さな犬がよく吠えてきていたのだが、あるとき、その犬を手違いでドアに挟んでしまったら、それ以来、それほど吠えなくなった。
犬ってやつは、非常に単純な行動原理に沿って行動していて、思えば、よく考えると、人間だってそれほど変わらないのかもしれないと思ってしまった。さまざまな要因があるけれど、強弱で人を判断する傾向は、サバイバルな環境では露骨に表れる。
そのようなあまり道徳的でない真理を理解することにも価値があって、相互理解をする際には、根本的には露骨なゲバルトの出現がありうるのだということを了解した上で、言葉で理性的に語り合い、また共にいる時間を増やし感情的な交流をすることで、相互理解を進める必要があるということを、典型的には義務教育の学校のようなファシスティックな共同生活の場で学んだ。
犬だって、共にいれば、仲良くなる。理性的な側面が幼い頃から強かった僕にとって、犬との交流の中でなされた、感情教育(リチャード=ローティのいうような)は、重要であった。
例えば、パレスチナイスラエルの和解も、そのような共同で生活を行う都市環境を共に築いていくしかあるまいと、イスラエルの壁建設のニュースを聞いて、今日は考えた。共に生活してみるというAh!という体験を重ねることがまずはとにもかくにも重要なのだ。