分析哲学

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分析哲学が好きである。

分析哲学:哲学辞典 森 宏一編集 青木書店 より
哲学の任務とは体系的な哲学的世界観を樹立することではなくて、日常的知識や諸科学や哲学における概念や命題や理論などの意味・構造・使用法などを分析し解明することである、とする哲学観であり、また、 経験論ないし実証主義への傾斜にしめされる反唯物論であり、言語分析ないし論理分析の愛好であり、とくに人工言語学派にあっては、形式(記号)論理学絶対視による反弁証法である。分析哲学者たちは、世界や人生についての特定の立場をとることなしに、虚心に世界や人生についての人びとの語り方の分析に従事しているのだ、とみずからはいうとしても、じっさいにはそういうことは不可能である。一例をあげれば、<物が存在する>という言明の意味は、かれらによれば、一義的にはきまっていないという。<知覚言語>を採用して、<目にふれている>という条件を現に満たしている事物だけがいま存在しており、この事物も視界のそとへ出ればただちに消滅し、ふたたび視野にはいってくれば、とたんに再生するのである、としてもよいし、ふつう人びとがしているように、見られていない場合にも事物は存在しつづけるのだという約束を導入してもよい、というのである。 こうすれば、<物の存在>をめぐる唯物論と観念論との古来のあらそいは、いわば調停され、消滅する、というわけである。


コミュニケーションのために必要な言葉の使い方が書いてある。
使われている概念も面白いものが多い。
言語化しないことが一般的生活では多すぎる。「なんで多くの人はいろいろなわけのわからないことを信じ込んでいるのだろう?」という疑問に答えてくれる。

もう、いつだって不思議なのだけど、ほんとに多くの人は「死んだ後も世界が存続している」ことを信じているのだろうか? 毎夜眠っているのだから、経験的・論理的に考えて、死んだらずっとあの状態だと思う。
もちろん、他者の世界は存続するけど、それはこの世界ではない。他者の世界は論理的に存在する。(証明は略。ここらへんから、論理構造の説明とか証明が、がーっと続くのが哲学)
でも、この世界と他者の世界は実質的に関係ない。論理形式は共有してるけど。
論理形式を共有しているのだから、「死ねばこの世界が消える」ってことは論理的に明白だと思う。(「僕は君の世界では一介の登場人物だけれど、僕の世界では君は一介の登場人物だろ」ってやつ。個人の尊重は、この論理でないと成り立たないでしょ。相互性の原理の基礎付けね。もちろん相互性は実質的には成立しえないけど、論理的には=言葉を使う限り、成立してしまう)
ここまでは、合理的な人だとちゃんと説明すると理解する。(ここの説明は適当。だって長いんだもん。)(合理的ではない人だと話を聞かないか、理解しない)唯物論的な世界観や宗教的な世界観のように超越的な世界観を信じている場合は別だけど。唯物論って不合理なんだよね。実在論は実在の定義をきちんと行えば合理的だけど。
ここから先の、死後の他者の世界に影響を与えたい、っていう多くの合理的な人が行う価値判断がよくわからない。もう既になければ何もないし、コミュニケーションできないし、不可知なのだから、どうでもいいと思う。でも、既になければ何もないとわかっていても、そうする人が多いのよね。まあ、他者の世界の実在性への価値判断なんだろうけどさ。
結局、僕は複雑な事象に対しては非論理的な価値判断を行わないんだよなあ。ある程度のことならば目的を措定して論理的に価値判断を行って行動するし、シンプルな好き嫌い(食事とか)では行動するけれど。常に目的を信じ切っているわけではないから、目的を疑ってしまうときは疑ってしまう。
(この場合、行動を伴わない価値判断は無意味とみなす。お遊びではなく遺言を書くとか、死後の名声を気にするとかが行動ね)

まあ、論理的には正しい不思議さでも、価値判断的(感覚的)にはこの不思議さは、「きゅうりを美味しそうに食べられる人がいる」というのと同様程度の不思議さとされるだろう。(僕はきゅうりが嫌い)
そういう風に思われるから、論理的に説明することに固執する哲学が好きになるのよね。
価値判断的には、死後の他者の世界を気にする人でも、論理的には話できるからさ。