天然ボケ仮説

天然ボケとは

天然ボケというものの定義がよくわからない。概念の定義がわからないと気になるものだ。
そこで調べてみた。まあ、限界効用って何?っていって調べてみるのと同様にだ。
まあ、ある程度は理解できるのだが、これって受け取る側が狭量なために成立するものではないだろうか。
一般的に会話というものは、コンテクストを共有しつつ、わからないところは聞き質して、相互の見解をやりとりするものだと思う。見解が無内容でもやりとりすることに価値がある。
だから、コンテクストが共有できない場合でも、きちんと話すことが会話の方法であって、自己のコンテクストを押しつけたり、理解不能だと匙を投げることは、避けることが有意義な会話をなす方法であると考える。
まあ、これは規範的なものなので、おいておいて、天然ボケの人の成立過程について仮説を思いついたので、書いてみる。成立過程について理解できれば、納得がいき、上記の規範も受け容れやすくなる。
どうでもいい仮説をよく思いつくので、今後も書いていこうと思う。実証研究ないかな。。。いつか、暇&リソースがあったら実証研究してみたい。

その仮説とは、「天然ボケの人は、成長過程における親しい人にコンテクストの共有が得意な方がいて、その人とよく話しているうちに、コンテクストを共有して論理的に説明するという能力がスポイルされてしまったのではないか?」というものである。「天然ボケとは」の仮説は間違っていると思う。天然ボケは先天的なものではなく、後天的なものであると思う。天然の椰子の木みたいなもので、恵まれた生育環境の影響によって、先天的な資質が発現したものだと思われる。(人間の資質の相当部分が環境によるものだという心理学の実証研究が、一卵性双生児実験などによって、出ている。それの応用研究となるのかな。)
成育過程を物語ってみる。幼児にとって会話の大部分は共同生活者との間でなされる。その過程で、話す対象(具体的には親・兄弟)が、コンテクストの共有が得意な方の場合、煩わしい説明なしでも、思ったことを口に出せば、それを了解して反応してくれる。言語ゲームの習得過程においては、暗黙のうちに行われる行動が、主要な役割を果たす。なぜだか、そういう風にしたらうまくいくので、人はそうするのだ。そういう環境で生育した場合、コンテクストを共有しない人と話す場合にも、ついいつもの調子で喋ってしまう人に育つ。加齢するうちに、世渡り上手になって、コンテクストを論理的に説明しつつ喋るようになるので、大人になれば、天然ボケは解消されていく。しかし、ぼーっとしながら人と喋る場合には、ついコンテクストを無視してしまう。他者がつまらないことを喋っていると違うことを適当に喋りたくなったりするものだ。
では、天然ボケの解消方法は何か。
まずは、コンテクストに気を付けて論理的に喋ることである。次に、ぼーっとしながら話を聞いたりせずに、自分の話したいことだけを喋らずに、相手が話したいことに合わせて喋ることを心がけることである。(これは、一般的な異文化理解の場合もあてはまる)
亜流の方法としては、難しい言葉で喋るというのもある。学者同士のお喋りの場合など、発散的に喋っていると、端で聞いている人にはさっぱりわからなかったりする。でも、語彙がわからないのは仕方ないよなって気になるので、一般的な生活においても、難しい言葉で喋っていると、天然ボケとはみなされない。説明を求められた場合には、きちんと答えられるようにしておくのが、賢い人だと思われるためには必要である。思考の自由度が高い人はぼけーっとしているし、発散的に喋るものだけれど、それに説明できる能力を加えれば、ボケではなく、賢い人だと思われるようになるだろう。ただ、ぼけーっとしている人は、ボケである。関係ないことを考えていても、応対はきちんとできるようになれば、天然ボケと呼ばれることはなくなるだろう。
人はいつも複線的に考えている。それを論理的に喋って他者に伝達できるようになるように、発達するにつれて社会化されていく。論理的に喋る際に重要なのは、前提の共有である。この前提が社会的に一般的なものではない場合、会話の中での説明が必要になる。しかし、前提を簡単に共有・理解してくれる理解力に優れた他者の中で生育した場合には、前提の共有を忘れがちになる。

仮説としては、こんなものである。実証方法は、天然ボケと呼ばれる本人へのアンケート調査や、家族への聞き取り調査が行いうる。
最初の規範的な話とも関連するのだが、思考が自由ならば、話が飛びすぎてもついていける。それを厭うのは会話の価値を低減させると思う。根本的に、他者間での会話というものを厭うために、人を天然ボケ呼ばわりしたりするのだ。人の生育環境は様々だし、鷹揚に構えて会話を行うことが、有意義な会話を生むと思う。